横浜こぼれ話は筆者の佐藤栄次が随筆や意見や考えを書いておりますので、一度見に来てください、

中国友好公司の山東社にはそれまでも東芝から若いスタッフを応援として送り込んできたが、彼らのほとんどが腐り切って会社の中で、やる気を無くしてしまった。
もう、こんな所には居たくないから帰してくれと悲鳴が飛んで来た。
その理由は、会社の方針があるのか無いのか分からない。
また、決まったとしても訳の分からないところで決まってしまう。上司が自分達の意見など聞こうとしない。
そんな事情で、中堅の藤木君を送り込んだ。
実は、藤木君は次に送り込む横川の先兵として行った。
その藤木君はそれ以前から中国担当だから、山東社の社長や経理や営業のスタッフとは顔見知りだったから、彼が潰されることはないと思っていた。
藤木君が山東社に行って一年後に横川が東芝を退職して、山東社に入った。
横川が、国際部長の時は山東社の連中は横川に従わざるを得なかったが、退職してしまえばただの人。いや、それどころか、横川潰しが始まった。
元々、山東社の人間が東芝から来るのは面白く思っていないのは当然のこと。だから、横川潰しは予想していた。
ところが、山東社の連中が最初にやったことは藤木潰しである。

藤木君の吊し上げが起きたのだ。
藤木君が山東社改革を断行しようとしたのだ。
客観的に見れば藤木君のやろうとしたことの方が正しいのだ。しかし、そのことは山東社のトップ連中には我慢がならなかった。その結果、藤木君は東芝に戻されることになってしまった。

横川も弱い立場で、藤木潰しを阻止することは出来ず、結局、藤木君を守ることもできず東芝に戻してしまった。
残ったのはただ横川のみ。横川は結局、裸にされてしまった。
そんな時に、私も中国担当を兼務することになった。
私は、私の上司だった横川に文句を言った。
しかし、もう、横川は東芝にいた時の横川ではなかった。
一方で、サンジャパンとミーティングを重ねて、中国マーケットをどうするかと検討しながら、山東社の対応もしなければならなかった。

更に事件が勃発した。
山東社の営業マンに孫仁という人がいた。
山東社の売り上げの8割はこの孫仁が立てていた。
この年のシカゴでの北米放射線学会(RSNA)で孫仁は国際部長の増井に、話しがあるから時間をとってくれと言ってきた。
増井は孫仁と明日朝、朝食を一緒にするから、私にも出てくれと言う。
私は孫仁とは面識はあったが、それほど親しい間柄でもなかった。
朝食で、孫仁は、こう言った。
「私は20代の若い時、山東社の社長に拾われ、色々と教えてもらった。その恩に報いて、これまで一生懸命に働いてきた。十分に恩は返したと思う。そこで、これからは自分の好きなことをやってみたいと思う。」
増井はこの時、何を考えたか分からなかった。
しかし、孫仁には、
「分かった。もう少し、待ってくれ。悪いようにしないから。」
と言っただけ。
この時、流れが大きく変わったのだ。
増井は帰国後、年の暮れにも関わらず、当時の山東社の社長の自宅を訪れ、翌年早々、孫仁に社長の座を譲れと迫り、強引に了解させたのだ。
当然、この時点で、横川の社長の話しもどこかへ吹き飛んでいった。
当然、サンジャパンの話しもなくなった。
私が思うに、増井はこの時、自分の退職後のポストを考えて行動したに違いない。
将来、自分が山東社に移るかどうか分からないが、一つの選択肢ぐらいには考えていただろう。

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