夫の叔父山下善助氏は、代々の仏壇屋だった。
優れた彫刻の技術は、京都方面にも知られていた。
善助の屋号も、先祖から続いている。
当時は六十歳で下広川が住居である。
いつもきちんとしておられ、親戚で法要などの時は、この叔父さんだけは、
紋付羽織に袴と白足袋をはいて来られた。
私たちも家が出来たし、仏壇をあつらえようと話し合い、この叔父に一任した。
仏間もあったので、この仏間に合う仏壇をということで、詳細に注文は付けなかった。
金額の点でも細かく話し合わず、善助の名において一世一代の仏壇をと、夫は言ったそうである。
半年ほどたって、仏壇は出来上がった。
出来上がった仏壇は大きく、彫刻も手の込んだ出来栄えだった。
私も金持ちの所に、山買いに行った時は、よく仏壇にお参りしたが、どこも立派な仏壇を持って居られた。
しかし、我が家のは、流石に立派だった。
出来上がった仏壇の価格は、当時一軒の家を新築出来るほどの価格だった。
仏壇開きをすることを思い立ち、世念寺の住所や親戚に来てもらい、供養していただいた。
寿江美の四年生の頃の日記だったと思う。
四~五年前に何か探し物をして、出て来たので無造作に開いたところを読んだら、
「いつも百点もらって来るのに、お母さんは当たり前のような顔をして、少しも喜んでくれない」
、という記事が目に付いた。
私ははっと胸につかれた感じで、子供たちをあまり、構ってやれず、
淋しい思いをさせていただろうことを、しみじみ追想したことである。