横浜こぼれ話は筆者の佐藤栄次が随筆や意見や考えを書いておりますので、一度見に来てください、

福岡空襲

昭和十六年から太平洋戦争となり、世はまさに戦時中だった。

昭和二十年5月に、三女澄江が生まれた。

この子は、胎内の時からよく動いていたので、男の子と思っていたくらいだった。勿論、男の子がもう一人欲しいとも思っていた。

戦争も長く続き、食料も乏しく、魚も肉も砂糖も、勿論菓子などもなく、米味噌に至るまで配給制だった。

赤ん坊に飲ませるための牛乳を、一キロ位離れた大田まで買いに行かねばならなかった。それも小瓶二本位だから、足りなかった。今のように粉ミルクなど、無かった時代である。

 

二〇年は、特に空襲が激しくなり、警報が出るたびに、赤ん坊を抱き、オムツの袋を持って、防空壕に入り、解除になれば出るということを、始終繰り返していた。

二十年六月に、福岡、大牟田が空襲にあい、八月には、広島、長崎、久留米が爆撃を受けた。

久留米空襲のときは、市街は火炎に包まれ、その炎の色が、二十キロも離れた私の家の二階の畳の色を真っ赤に染めた。

大牟田空襲の時、高射砲で、敵の B 29が撃ち落され、炎上しながら、真っ赤なシルエットを、大空に描き、落下してゆく光景を、怖いのも忘れ、そのすさまじさ、美しさに呆然と見とれていた。その夜の光景が、今も鮮明に私の脳裡に焼き付いている。

その時の米機の搭乗員は、落下傘で降りて助かり、捕らえられた。二人だったので、一人は横山村に、一人は上広川の役場に連れて行かれ、目隠しされて、軍の憲兵に連行されたと言う。