横浜こぼれ話は筆者の佐藤栄次が随筆や意見や考えを書いておりますので、一度見に来てください、

「三年寝太郎」は、今では日本昔話として一般的によく知られている。
あらすじ:
寝太郎は三年と三月もの間、寝ほうけていたが、折からの旱魃(かんばつ)で村人が苦しんでいるのを見て、急に起き上がり、大川から井手を掘って水を引こうと言い。最初は馬鹿にしていた村人も、一人で井溝を掘り続ける寝太郎の姿を見て協力しだす。そしてとうとう、潅漑用水は完成し、日照りの時も水に困ることがなくなり、村は豊かになり、寝太郎も働き者の若者となって幸せに暮らしたというわけである。
しかし、これに尾ひれがつき、その資金調達として、佐渡金山に渡り、1000足の草鞋を金山で働く労働者に渡し、その草鞋を回収して砂金を取ったというのだ。

そもそも、厚狭の寝太郎が有名になったのは民俗学者の柳田國男が、『定本柳田国男集』の「隣の寝太郎」として次のように紹介したからである。
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厚狭では江戸時代に寝太郎のお陰で数千町歩の荒地が開発されたと伝承されており、寝太郎の木像や、長者となった寝太郎を祭る「寝太郎荒神」という神社が残されているという・・・
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柳田は更に次のように付け加えている。
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一般に「隣の寝太郎」民話といわれている全国各地に残る寝太郎民話は、これとは相当趣向を異にするものである。
寝太郎が寝てばかりいることは同じであるが、長者になった道筋は全然違う。
寝太郎は隣の富裕な長者をだまして、その一人の娘を妻にしたというのである。
ある正月元旦の明け方に寝太郎は、白鷺(しらさぎ)を抱えて、隣との境の大きな椋の樹の梢に登って隠れ、そこから作り声をして「おれはこの土地の氏神である。娘には必ず隣の寝太郎を聟(むこ)に取れ」とよばわった。
そして寝太郎が放った鳥が鎮守の森をさして飛んでいくのをみて、長者はこの神のお告げをすっかり信じてしまい、「隣の寝太郎」はまんまと聟に納まったのである。
唯一つ厚狭の例を除いて、他の“寝太郎”は妙に求婚手段の成功の方に力を入れて説くものが多い。
しかし、「厚狭の寝太郎」がまったく孤立したものという訳ではない。
というのは、信州安曇郡の寝太郎民話では、笹を刈っていた若者が昼寝をしている内に、頭に二本の角が生えたとか、急に巨人に化してしまったとかで、三年の間、山中に隠れてしまったが、夜には返ってきて一人で自分の家の田植・田業を一晩のうちに片付けてくれたという。
ここには、長者の娘との婚姻譚でめでたしめでたしとなるのではなく、大変な努力と労働で話が終わるスタイルの寝太郎民話を確認できる。
周防と信州という遠く離れた場所に、同じ昔話の類型が残されていることは興味を引くところである。
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寝太郎の民話についてはこのくらいにしておく。

親父の国鉄退職後、親父は鬼笑亭という弁当屋の社長に口説き落とされ、山陽オート内の食堂の管理、主に経理を任された。
この仕事を何年勤めていただろうか?
多分、4〜5年くらいか。
同時に、民生委員を頼まれたり、菩提寺である円応寺の檀家総代になったりして忙しく働いていた。
そして、私が高校生になった頃、厚狭駅前に寝太郎像を建てようという問題が出てきた。
親父は、頼まれた仕事は「やってやろう」という精神で引き受けたのだ。
この仕事は街の有力者を説得し、寄付を募らなければならないという大変な仕事である。
そのためには、自転車で町中を駆けずり回らなければならなかった。

ちょうどこの頃は、自分の家建てで大変な時であった。
心境として、寝太郎像を建てる話など構って折れない状況だったと思う。
はっきり覚えていないが、当時、啓一兄が、
「もう国鉄を辞めたんだから、ゆっくり休めばいいじゃあないの。寝太郎像建設のために資金集めで回るのは大変じゃろうが・・・」と言った時、親父は、見事に答えたのだ。

「俺には子供達に何も残せてやれないが、寝太郎像を残してやることができる。」

その時、その場にいた者は、親父が何を言っているのかは直ぐには理解できなかった。

そして、親父は続けた。

「将来、かずえや栄次が結婚する時に、あるいは、孫たちが結婚する時、結婚相手が聞いてくるじゃろう。佐藤家ってどんな家か?その時には寝太郎像の所に連れて行って、親父の名前が、あるいは爺さんの名前がここにあるでしょうって。俺の名前が寝太郎像の後ろに書かれるはずだから。」

親父が亡くなって、一度、私は寝太郎像の後ろに書かれた親父の名前を確認して、胸が熱くなったことを思い出す。

 

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