山の声 捨てる神拾う神

2014年01月14日

無一文になった私たちは、これから先ずどんな方法で行こうかと話し合っていた。その時、私たちの仲人だった野中のおじさんが、

「おれの杉を伐採せんか。代金は製品を売り上げた分だけ分納すればよかけん。」
と言ってくれた。

私たちにとってこの話は、“地獄で仏”のように有難く、嬉しかった。
「本当ですか。是非そうさせてください。これで助かります。」

私たちはこれに力を得て、早速、山の調査にかかった。この杉山はもっとも材質の良い木が育つ山で、私たちの工場から、五,六キロの所にあり、小山谷と呼ぶ地名だった。

先ず、山の調査をして、価格を取り決め、代金は後払いということで話は決まった。

この広川地区に育つ杉は、一般に成長が遅く、従って木目が詰まり、良質の建築用材として、珍重がられた。

私たちも出来るだけ注文を取り、有利に売り上げることに専念した。

こうして、最後には、山代金は勿論、金利に見合う分も合わせて、支払うことが出来た。

この山が終わった頃は、私たちも一息つけた。

その後、次々に少しずつ買った山も、順調に利益があり、我々の経済状態も、大分良くなっていった。

昭和十七年の十月に、次女美智子が生まれた。

昌三の運動会を見て、帰ってからだった。予定日はもう少し先だったと思う。

昌三は七つあがりで、一年生に上がる前年の運動会に参加したのだから、数えの六歳だった。他の子と一年違うので、可愛そうなほど小さくて、参加するだけでも良いと思っていたら、一番元気で、走るのも一番だった。

この頃、地元の松茸山を、山ごと買い取り、松茸狩りに、知人や取引先のお客などを招待して喜ばれた。

昭和十八年、十九年は、軍の命令で、主に軍用材を納めた。

山林の売買の方は、統制も公定価格もないのに、材木屋だけ価格を決められて、全く採算に合わなかった。

軍からの納入期限は厳しく、価格も厳しかった。一体に無理な注文が多かった。

例え儲かろうが、儲かるまいが、軍の注文に徹夜してでも、期日に間に合わせねばならず、製品となす用材がそろわぬ時は、引き合わぬ価格でも山主に相談して、売ってもらう交渉もした。

軍の将校が始終工場に、監督や激励に来ていて、さして利益もないのに、お茶だ、食事だと振舞っていた。勿論、この将校の人たちは、材木のことが分る人ではなかった。

軍からの感謝状は度々もらった。

銃後の産業にも種々あるが、吾々のように、半分奉仕的にやった者もいれば、軍需品の兵器類の製造や販売、軍用衣料会社など、笑いが止まらぬほど儲かった会社も数多かった。いわゆる戦争成金が、沢山できたのである。

軍用材を納入していたせいかも知れないが、夫は再招集を免れた。

復員して来た後、太平洋戦争にも、再招集された人は多かった。