山の声 太平洋戦争

2014年01月14日

昭和十六年から太平洋戦争となり、世はまさに戦時中だった。

昭和二十年5月に、三女澄江が生まれた。

この子は、胎内の時からよく動いていたので、男の子と思っていたくらいだった。勿論、男の子がもう一人欲しいとも思っていた。

戦争も長く続き、食料も乏しく、魚も肉も砂糖も、勿論菓子などもなく、米味噌に至るまで配給制だった。

赤ん坊に飲ませるための牛乳を、一キロ位離れた大田まで買いに行かねばならなかった。それも小瓶二本位だから、足りなかった。今のように粉ミルクなど、無かった時代である。

 

二〇年は、特に空襲が激しくなり、警報が出るたびに、赤ん坊を抱き、オムツの袋を持って、防空壕に入り、解除になれば出るということを、始終繰り返していた。

二十年六月に、福岡、大牟田が空襲にあい、八月には、広島、長崎、久留米が爆撃を受けた。

久留米空襲のときは、市街は火炎に包まれ、その炎の色が、二十キロも離れた私の家の二階の畳の色を真っ赤に染めた。

大牟田空襲の時、高射砲で、敵の B 29が撃ち落され、炎上しながら、真っ赤なシルエットを、大空に描き、落下してゆく光景を、怖いのも忘れ、そのすさまじさ、美しさに呆然と見とれていた。その夜の光景が、今も鮮明に私の脳裡に焼き付いている。

その時の米機の搭乗員は、落下傘で降りて助かり、捕らえられた。二人だったので、一人は横山村に、一人は上広川の役場に連れて行かれ、目隠しされて、軍の憲兵に連行されたと言う。