山の声 日田の住い

2014年01月14日

早津山の方は、道路もまあまあ良くなり、日に数台、荷を積んだトラックが、山から下っていた。

ある日、一台のトラックが、山から荷を積んで、降りる途中、カーブを曲がりそこなって、谷に落ちた。道の片側は、川に続く幅広い傾斜で、川には水が少し流れていた。

車は、落ちる時、三回転して、川に落ち、運転台の天蓋ははがれていた。

車に乗っていた三人は、車外に放り出され、積んでいた木材は四散した。しかし、運転手と助手の二人は、車の下敷きにも、材木の下敷きにもならず、大した傷も負わずに無事だった。一つ間違えば、大惨事になりかねなかったと思い、神仏の加護に感謝した。

山の仕事は、危険がつきもので、特に、早津山のように大きな山は、毎日が危険と隣り合わせだった。

今までに沢山の人が働いていた。でも、大怪我する者もなく、勿論、死者一人でなかった。今から考えても不思議とさえ思えた。

八女で、あまりにも税金が高くなったこともあり、日田転居を決心したのであった。

ところが、日田税務署でも、目を付けられ、税金はますます高くなった。

日田の住居を買った年は、七百五十万円の税金がかかってきた。国税局からは、二日も居座られて、調べられた。色々、交渉した挙句が、右のような金額となった。

私は或る日、四百五十万円の現金を持って税務署に行った。

「これ、税金の内金です。四百五十万円、あります。受け取ってください。」、と言って、金の包みを置いたら、署員は皆、私の方を向いて、驚いた顔をしていた。

それからは、税務署長が替わる度に、私の所に、挨拶に来ていたように思う。

昭和二十七年に、日田三本松町に、住居を買った。敷地百四十坪、建坪六十坪のまだ新しい家だった。

この家は、昔から、資産家である人の建てた家で、木造二階建ての堂々たる建築だった。部屋数は十部屋ほどあり、うち応接間と書斎は、洋間になっていた。三本松町の目抜き通りの角地に建ち、玄関とは別に四間の間口のある土間が十五坪ほどあった。

買い取り価格は、百五十万円だった。この通りでこの建築としては、割安だった。

「私達もやっと、家らしい自分の家が持てた。」、と感慨もひとしおだった。

この家に、母を招待できなかったことは、返す返すも残念でならない。もう一年生きていてくれたら、さぞ喜んでくれただろうにと、悔しく思い出される。

この頃、早津山を売らないかという人が現れた。

「どうする。売ってみるか。まあまあの価格では売れると思うが。」

夫は私に言った。

「そうね。この辺で、手を引いた方が良いかも知れぬが、やっとここまで漕ぎつけて、今から山も、楽になるはずじゃあないの。」

「だから、買いたいという者が出て来たんだ。最初は誰も手を付けなかった。勿論、金額の大きい点もあるが、あの道は誰も作れない。」

更に夫は続けた。

「人々は、あの山を買う勇気はなかった。その山が、今ドンドン出材しているので、欲しくなったんじゃろ。」

こんな話を、二人はよく繰り返し話していた。また、第三者にも相談した。

私も今まで、我武者羅に働き続けて来て、この頃は、大分疲れていた。家庭に落ち着きたい気持ちもあった。

「一層こと、半分だけ売ったらどうでしょう。」

私は、全部売るのは惜しいが、半分なら売っても良いかも知れぬと思った。

「そんなこたぁ、でけん。分けようがなか。」、と夫は言った。

山の仲買人は、今度も、また、度々やって来た。

結局この辺で、売却の気持ちが動いた。

あのような危険なことばかり、やっていたのに、一人の死者も負傷者も出さずに来て。これから先どんな不祥事が起こるやも知れず、この辺で手を引くのも、得策かも知れぬと思うようになっていた時なのだ。

今までに、既にかなりの利益を上げているし、最初は冒険と思われたが、一応成功したと言えよう。朝鮮動乱で材木も、価格が上昇しているので、良いチャンスかも知れない。

山を売るのに、分割の仕様がないと、夫は言っていたが、買い手の都合もあり、また、仲介人の頼みもあって、一区画の立木を、一千五百万円で、日田の田中木材に売った。

更に、別の一区画を七百万円で、大鶴木材組合に売却した。また、暫くして、この組合に別の区画を四百五十万円で売却した。

それから、山の上部の方の区画を、千万円で倉田商事株式会社に売却した。

最後は土地だけ残った。

伐採した後の土地には、杉苗を四十万本、植え付けていた。

この土地を売却したことは、今思えば返す返すも残念だ。

買主のたっての希望により、五百九十万円で、この土地を田中木材に売却した。

これで、早津山の全部を売りつくしたことになる。自宅で今まで、出材した分を含め、相当の利益を収め、有終の美を飾ったと言えよう。