山の声 小林の山

2014年01月14日

昭和二十九年に、宮崎県小林市に、一つの杉山を買った。

この山の山主は、古久保安次郎という人で、沢山の山林を持つ資産家だった。若い時は自分で郵便局を経営しておられたそうである。小柄な六十歳代の人と聞いたが、私の目にはおじいさんのように思われた。

広い屋敷に奥さんと二人で住んでおられた。息子さんばかり三人居られて、三人とも東大卒業と聞いて驚いた。

息子さんの二人はお医者さんで、一人は学校の先生と聞いた。

お医者さんの一人は軍医で、一人は東京の病院に勤めているが、ゆくゆくは開業するので、病院を立てる土地は、既に東京に買ってあると話された。

私も山見に行った時、古久保宅に挨拶に行った。二回目にお訪ねした時、是非自分の家に泊まるよう、あまりにも夫婦で引き留めて下さるので泊めていただくことにした。既に、私達は都城の旅館を予約していたので、こちらはキャンセルして、古久保宅に泊まった。

夜は山林業の話や、若い時の苦労を散々聞かされた。

多分この人の息子さんたちは、この父親の話を、あまり聞こうとしないのかも知れない。

私たち夫婦は、この時この人の子供くらいの年齢だったし、夫がうまく相槌を打つので、古久保氏は上機嫌だった。

「息子達は、山には一向趣味がなく、売れ売れと言います。売っても金の使いようがありませんからなあ。」、と言われて、淋しそうに笑っておられた。

「米は順繰り三年前のものを食べております。」と言われたのには驚いた。二人だけなのにどうしてそんなに溜め込んで置かねばならぬのか私には理解しかねた。

そういえば、出される御飯は古米らしくかび臭いように思えた。

地主は余米というのを小作人から取り、蔵の中に蓄えておく習慣と見える。翌朝、蔵の中を見せて下さったが、大きな米桶が、いくつも並んでいた。ここに三年分蓄えられ、古いのから食べられる訳である。

お菓子なども、もらい物が余ると見えて、出される生菓子は、少々日が経っている感じだった。

しかし、夜具は、大変上等なものを着せて下さった。上下どんすで、暑い布団二枚重ねた上に寝かされ、体が落ち込んで、寝返りがうまくできなくて、夫と笑い出したことを思い出す。

「まるで、殿様の様ね」と私は夫に言った。

広い立派なお座敷に、上等の夜具に一夜を過ごさしていただいた。古久保家としては、最上級の接待をしてくださったものと感謝した。

私は、また一つ勉強した。

金持ちというのは、私の想像以上につましく、質素な生活であることを知った。

しかし、この都城の南の町から、三人の息子を東大に出し、学資、生活費の仕送りも、大変なことだったに違いない、一見、田舎のおじいさんのように見えた古久保氏だったが、やはり生きた金を使っておられることを思い、尊敬の念を深くした。

さて、私達の買った杉山は、杉立木四万本と、松や雑木など立ち込み、それからも用材として、切られる材木がかなりあった。

面積は百町歩、価格千二百三十万円だった。

もう山買いは止めなさい、とは言っても、四十歳代の男が、遊ぶわけにもいくまいし、遊べというのが無理というものだろう。

この山も道路が悪いので、約四メートルの道を整備しなければ、搬出はできない。

「この山は伐採せず、そのまましばらく持っていた方が良いかもしれませんね」と私は言った。

「それも良いかも知れませんね。財産として伐らずにおくか」、と夫もその時は相槌を打った。

しかし、買ってから一ヵ月余りして、とうとう伐採を始めた。こうして山を一つ手掛ければ、金は吐き出すように出て行った。現金だけでは間に合わぬので、大部分は手形を書いていた。従って手形の期日の時は、始終追い回されていた。この小林山を買うまでは、まだ早津山は全部売っていなかったので。やはり、金には追い回された。

夫は留守のことが多く、それでも回ってくる手形は、放っておけず、絶対私がどうにかして、落とすしかなく、夫もそれを当てにして、電話すらかけなかった。

手元に金があれば、手形も問題ないが、また手元になくても、自分で操作できれば、心配いらぬが、何日おきかに、回ってくる手形に私は追い詰められ、身の細る思いをしていた。手形の金額は、三十万円、五十万円、百万円と金額が多く、女の私には荷が重すぎた。

このような大金の金策は、男がすべきなのに、夫は山に登り切りで帰らず、山奥に居れば、電話も通じなかった。

私の家の隣の [] みつわ下駄」のご主人は、私の顔を見るとよく言われた。

「奥さんは良いですね、毎日おしゃれして、タクシー乗り回して。」

「何が良いものですか、金の足りぬものが、こんなことをしているんです。」、と私は言ったが、本気にしてくれず、うらやましがっているので、皮肉言っているのか分からなかった。当時としては、そう簡単にタクシーに乗らなかった時代である。

切羽詰まると私は、いつも親しくしている綾部の奥さんのところに駆け込んだ。

「奥さん、お金が欲しいんだけど・・・」

「いくら必要なの」

「三十万円足りないんですよ。お願いします」

「それ、いつまで」

「今日必要なの。手形が回ってきているのもので」、と矢継ぎ早に話しながら、お願いした。

「そんな急に言ってきたって、私もどうにもならない。せめて、昨日分かっていればね。じつは、私んとこも、今日落とす手形があってね。」

尤もな話である。その日の手形の金は、三時までに、銀行に届けなければ、無効となるので気が気ではない。

「今日、必ず支払ってくれるはずの、約束の金の支払いを先方が断ってきたので、私も途方に暮れて奥さんのところに駆け込んできたんですよ。」

「兎に角、よそを当たってみましょう。どこか貸してくれるところを。お互い、苦労するよね。」、と言いながら、渋々奥さんは太った腰を上げ、私と一緒に、金策に走り回って下さった。顔の広い方なので、大抵はどこかで用立てていただいた。

この綾部さんは、丸亀商店の女主人であるが、お父様の時代から、酒類卸問屋で、ご主人は養子である。私達のように、日田に来て日の浅いものと違い、先祖からの日田人なので、大分県でも、名の知れた知名人である。

営業手腕のある太っ腹で、社交家のこの奥さんには、私はいつも敬服していた。

私の家の裏に、三雲さんの家があった。一男一女と夫婦の四人家族だった。私達より少々三雲夫妻の方が年上だった。

ご主人は、日田高校の先生で、殊に書道にかけては、県下でも有数な方だった。書道の教え子も多かった。

奥さんは大変社交家で、若い人から年輩の男女まで、出入りの多い家で、賑やかな談笑の声が、いつも聞こえていた。

我が家の子供達も、私もよく遊びに出入りしていた。

しかし、この三雲夫妻は、私達が日田を放れてから、四、五年後、割合年若く他界された。温かいご家庭だったので、惜しまれてならない。

さて小林の山は、山裾に山小屋を作り、松尾朝雄氏ご夫妻に住んでもらった。この主人の方は、夫の遠縁の人で、子供はなく、経理も出来たので、山の監督をしてもらった。

伐採も進み、道路も人夫を相当入れて、整備したので、その経費は多額に上った。その代り、搬出の方はできるようになった。

山はどの山でも、この時点までが、苦労に次ぐ苦労で、そのあとは徐々に、金もまわってくるものである。

私もこの山に、二、三回は行き、山も一通りは見て回った。

私は自分の所で買った山は、大抵見ているので、よく知っている。夫が無理に連れて行くし、また知っておくほうが、話が出来て好都合でもあった。

宮崎に買えば宮崎に、鹿児島に買えば鹿児島に、熊本に、山鹿に、八女方面と出かけて行った。また、その間、用ができれば、一人で出かけて、山まで行くことも多かった。

私は福岡に移り住むまでは、結婚以来ほとんど炊事洗濯をしたことはなかった。する暇が無かったわけである。いつもお手伝いさんが居て、その方は任してあった。洗濯せぬといっても自分の下着までお手伝いさんに洗わせるようなことはしなかった。娘たちにも自分の下着は自分で洗うよう小さい時から躾けた。

小林の山は、一年ほど経過した頃、都城市の材木屋から、売らないかという話が持ち上がった。この頃、山の材木は、四割ほどは搬出し、売りさばいていた。遠方のことで経費も掛るし、儲かれば売ってもよいだろうと、いうことになり折衝の末、売買契約を取り交わした。価格は二千二百五十万円で取り決めた。これは少々安すぎる金額と思われたが、出材した残りだから、やむを得ぬことだろうということだった。この山も、かなり利益は上げたようである。

売った時は昭和三十一年だった。

三日前から降り続いた雨に、三隈川は水域を越して、水は両岸にあふれ出した。一時間も経たぬ間に周りの人家は床上まで浸水した。

深夜のこととて、人々は寝間着のまま、起き出し、右往左往の大混乱となり、泣き叫ぶ者、助けを求める者、荷物を持ち出す者、懐中電灯に照らし出された光景が、影絵のように映った。川も道路も見分けがつかず、水一色となり、樹木は根こそぎ倒れ、それが水をせき止めもした。せき止められた場所は、水が盛り上がり、凄まじい勢いで渦を巻いていた。家、樹木、家財道具類の雑多なものが、水に流されていた。半鐘が滅多矢鱈に鳴り響き、消防団が救出に当たったが、暫くはこの自然の猛威に、手の下しようが無かった。

私の住居のある三本松町は、市内でも少し高い土地なので、浸水はしなかったが、前の道路は川となり、少々坂になっているので、水はすさまじい速さで流れていた。

叩き付けるように降る風雨の夜半、ドンドンと強く戸を叩く者があり、戸を開けると、転げ込むようにして、ずぶ濡れの人々が、ドヤドヤと這入って来た。

夫の友人の西隈さんの一家だった。西隈さんの住いは、小渕の三隈川沿いの町なので、家も家財も流失し、命からがら、私の家まで、逃げて来たのであった。

その晩は幾人かの町の人達が、私の家で夜を明かした。一夜明けて、改めて洪水の凄まじさに驚いた。

一両日して少しずつ、水は引き始めたが、復旧作業は大変だった。降雨量は300ミリから400ミリと、ラジオは報じていた。

西隈一家は、私達より早く、八女から日田の姪を頼って、小淵に引っ越し、製飴業をしていた。

この水害をもろに受け、機械類も、家財ももちろん、家も流失したので、無一物となった西隈一家は、我が家の二階に一ヵ月ほど暮らした。急に人数が増え、我が家も食料、衣料と気をもんだものである。

当時、私達は、日田市の田島町に三百坪ばかりの土地を持っていた。その敷地の中に古家が二軒あり、空き家だった。この土地は、よく整地された土地だが、使っていないので草だけは生えていた。

西隈さん達は、いつまでも、我が家に同居も出来ず、田島にある空家の一つに移ることにした。

大工を入れて少し繕い、風呂、台所を整え、畳、襖を替えると、七人の家族が住めるようになった。

引っ越す時は、布団、食料、衣類、食器類など、家にある物を出来るだけ分けてあげた。この土地で、西隈さんは再び製飴業を始めた。二年後に、住宅公庫で住宅と工場を建てられた。製飴業は繁栄し、現在息子さんが後を継ぎ営業されている。