山の声 チャンスは何度も来ない

2014年01月14日

昭和四十年から五十年にかけ、夫は色々な仕事に手を出していた。

この事業で、この仕事でと、野望を燃やし、元の財産を取り戻そうと、苛立っていたように思う。

四十年頃、肥後に一つの杉山を買っていた。この山は見に行かなかったから、詳しくは分からないが、搬出に大変金が掛った。

搬出用のワイヤーを沢山買い込み、ブルトーザーを買ったり、道具につぎ込んだ金も、少々ではなかった。

鳥栖木材市場に、その山の杉材を出荷しているというので、或る日、私は、鳥栖まで見に行った。ところが、その杉材は材質が悪く、伸びの無い木だった。

これを見て私はガッカリした。夫には言わなかったけど、材質が悪く、伸びがなく、搬出が悪ければ、儲かるはずがないと思ったのである。

やはり、この山も、最後まで出材し終わらずに処分したが、買い込んだ器具類の金までは取り返せなかったと思う。

この後、夫は飯塚の畠田砿業所と契約して、選炭を手掛けていた。

ブルトーザ二台と、トラック三台の自家用を持ち込み、従業員と泊まり込みでやった。

この時は、井上さんという男の事務員が居た。この人は四十歳代で経理が専門だった。そのため、私は夫のこの仕事には関わりがなく詳しく知らなかった。

選炭というのは、石炭を掘って、石炭とボタと分ける段階で、そのボタの中には、沢山良質の小粒の石炭が混じっている。そのボタを機械にかけ、石炭を選り出す作業である。

この仕事を夫が始める時、幾平叔父や私の身内は賛成しなかった。理由は、もう石炭は斜陽になりつつあり、人件費が掛り過ぎるということであった。

仕事を始めた夫は、ほとんど飯塚に居り、私と詳しく話すこともなかった。当時は、夫から金をもらうことも滅多になく、私は諦めていた。

金策は大変だったと思うが、私の知らないところで、井上氏と話して行われていた。

一年も経過した頃、突然、管財事務所の役人が来て、差し押さえだと言って、金庫や戸棚、電気製品、タンスまで、封印していった。何か詳しくは分からぬが、私は冷めた気持ちで、落ち着いていたことを覚えている。

私は、自分の箪笥の張り紙は、すぐ取って使用した。女の物は簡単に、押さえられないことを知っていたからである。

ブルトーザやダンプなど何台も買っていたので、月賦未払い分の差し押さえだったと思う。

人の一生には、チャンスが三度はある、と聞いている。

夫もこれまでに、三・四度あった。それを、皆逃しているのが残念である。一回目は早津山で大金を儲けた時。二回目はレストランを二つ持った時。二つ持っていれば自分で営業しても、貸しても、生活の保証はある。日田も久留米も一流の場所だから、財産的価値も相当なものと思う。三回目は、レストランを売却して、福岡に出て来た時は、まだ、相当な金を持っていたので、事業をせずに、土地に変えて置いて、遊んでいれば、大した金額になっていただろう。

チャンスが来ても、それを上手につかんだ人と、逃した人が、成功の分かれ目である。