山の声 幻覚症状

2014年01月14日

幻覚症状

夫は入院して、半年ほど過ぎたある日、トイレで倒れて、脳梗塞
と診断された。

それから寝たきりの状態となった。意識はあるが半身不随である。

園には、有能な看護婦さんが数人居られるので、適切な処置もして下さるし、医師もすぐ呼べるよう指定の病院があった。寮母さん達も行き届き、寝たきりの人も、毎週入浴させてもらった。

あれだけ、がっちりした体格の夫も、骨のみとなり、一人では身動きも出来なくなった。

 

娘の住める砂漠の街を訪ふ夢も、足止む夫はかなわざりけり

病床に動けぬ夫の三とせ過ぐ 二百の骨の軋みておらむ

待つよりほか術なき夫を訪ひゆきて 会いて別るる日を重ね行く

 

夫は時々幻覚症状を起こすようになった。

或る日、私が着くなり、

「昨日はアラスカに行って来た。とても近所だよ。」

更に夫は続けた。

「それはそれは広い所でね、一抱えも二抱えもある大樹が沢山立っている。樹の向こう側に人が立てば、人の姿は全然見えないくらいの大樹だ。」

「あなた、良かったね。念願のアラスカを見て来て。今度行く時は私も連れて行って。」

と私が言えば、

「今盛んに伐採しているよ。雪も積もっていた。きれいだった。」

夫は夢見るように、目を輝かして、にこにこしていた。

ああ、この人は、幻覚でアラスカの樹林を見て来たのだ。でも、それは、今の夫にとって、幸せなことだと私は心底思った。

まだ、元気な時、アラスカの樹林を見て来たいと、もらしていたこともあったので、夫の頭の中に残っていた思いが、現れたのだと思った。

また、ある時、こんなことも言った。

「金はロンドン銀行と、マンハッタン銀行に預金している。管理を信さんにでも頼んだらいいよ。」

信さんとは、娘婿のことである。

「マンハッタン銀行って、どこの銀行なの?」

「アメリカだよ。ニューヨークだよ。」と更に夫は言った。

「あんたも、指輪の二つ、三つ買っておかねば、娘たちにやる形見もないじゃろう。」

私は聞きながら、夫はアメリカへも、ロンドンへも行ったこともないのに、と思いながら故知らず、涙が出た。

 

幻覚に広き山野をかけめぐり 若き日のごと夫の幸せ

生き死にの境に夫が翔りいる 夢に見つづけしアラスカの森