横浜こぼれ話は筆者の佐藤栄次が随筆や意見や考えを書いておりますので、一度見に来てください、

皆さんは、初めてもらったプレゼントを覚えているでしょうか?
私ははっきり覚えているのです。
そのことが、はたして人の人生にどれだけの影響を与えたのだろうかと考えることがある。
その影響を数値に表す事はできないが、人の行き方を大きく変えた事は事実です。
この文章は感謝を込めて書いております。

啓一兄の結婚後、我々は下関に移った。
下関に移ってからは久夫兄が文洋中学の一年生。
私とかずえ姉は神田小学校の一年生と三年生。

傍目には普通の五人家族としか思えなかったと思う。
しかし、学校で担任が、兄弟姉妹が何人いるかの調査をした時のこと。
「兄弟姉妹が一人の人は手を挙げて」
「二人の人は手を挙げて」
「三人は?」
「四人は?」
もうこの辺りで、手を挙げる生徒はいなくなる。
「よーし」、と言いながら挙手した人数を数えてみると、数が一人足りないことに気がつき、
「まだ、手を挙げてないものは?」と言われ、さもも悪いことをしたものの様に、私は手を挙げた。
「佐藤は何人兄弟なのか?」と聞かれ、
「八人です・・・」と弱々しく答える。
すると、教室がわーっと湧く。
驚きの「わーっ」なのだ。
下関では八人兄弟は珍しいこととは、全く想像もつかなかった。

下関は厚狭とはいろんな点で違っていた。
特に違っていたのが着ているもの。
みんな小ぎれいなものを着ていた。

多分、田舎から出てきた佐藤家では色々な物入りで、国鉄の給料ではなかなか、必要なものが買えないのが実情。
だから、私は兄貴のお古ばかりを着ていた。
久夫兄貴は六歳上なので、お古といえば、相当なもの。
しかし、私はあまり不満は感じなかった。
それよりも、お袋が金のやりくりをしていることの方が気になっていた子供だった。

ところが、12月の私の誕生日祝いだったか、あるいは、年の暮れのプレゼントだったのかははっきり覚えていないが、私宛にプレゼントが届いた。

送り人は、里江姉であった。
私はプレゼントの箱を嬉しそうに開けた。
そこには茶色の服が入っていた。
胸には両方ポケットがあり、何よりも新品なのだ。
私がいかに感動したか表現するのが難しい。
しかし、とても嬉しかったことだけは覚えている。

当然のこと、翌日からその茶色の服で学校に行った。
私の気持ちはフワフワ浮いた気分。

私はその自分、里江姉には通り一遍のお礼は、お袋に言わされたと思うが、自分の口から、本当の気持ちを伝える事はできなかった。

いつかはこの口で言おう言おうと思っていたが、結局そのままになってしまった。

この場を借りて、お礼を申し上げます。
本当に嬉しい、プレゼントでした。
ありがとうございました。

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