横浜こぼれ話は筆者の佐藤栄次が随筆や意見や考えを書いておりますので、一度見に来てください、

私は1968年、運よく岡山大学に入学した。
親父は、合格が決まって間も無く、岡山に行った。
下宿探しのためである。
そして、4月に入り、私は岡山に向かって出発した。

岡山に着いて、親父が契約した下宿を尋ねると、岡山大学の裏の半田山(標高200メートル位)の山裾にある立派な庭のある家で驚いた。
二階の部屋に通されると、階段脇の三畳の部屋が私の部屋。
隣は岡山大学工学部三年生の部屋で、多分、十畳の広さの家で南向きの立派な部屋であった。
当時の下宿代は一畳千円の相場で、私の部屋は3500円。
それでも、初めての下宿に私は満足していた。

自転車も高校時代に通学していた自転車を送ってもらい、私が岡山に着いて数日後に届いた。
大学内や岡山市内は全て、この自転車で動き回った。

入学式は確か4月8日だったと記憶する。
しかし、なぜか、この入学式のことはほとんど記憶がないのだ。
多分、この入学式にはキヌエ姉とお袋が来たのではないかと薄っすらと覚えている程度。
ただ、入学式の後、学生会館で食事をした時のこと、キヌエ姉が、
「卒業式も必ず来てやろうね」、とお袋に言った言葉を覚えている。
二人をバスで見送って、下宿に帰ろうと自転車で走っていたが、なぜか気になり、私は岡山駅へ、裏道を自転車で走った。
しかし、私が着いた時には、既に新幹線が駅から出発した後だった。
その時、なぜか涙が止まらなかったことだけは覚えている。

大学生活も慣れた頃、大学内で一人の学生が警察に逮捕された事から、大学内が騒然としてきた。
大学では学生のストが行われ、その年の10月からは授業なしの毎日であった。
実はこのスト状態が二年以上続いたのだ。

私の生活は、バイトと下宿内で色々な本を読みあさったので、ある意味充実していたと思う。
この時代、安保条約の継続問題と大学の古い体制への反発が絡み合い、日本の大学はかなりがスト状態に入っていた。

1970年の安保継続という結論が出たのと、大学の改革も中途半端な状態で終わり、当時の学生の一部の学生は、目標を失ったしまったのだ。
私も、その一部の学生の一人であった。
私の所属する理学部物理学科は入学当初は27人いたが、一人が自殺し、20人以上が留年することになった。
また、友人の一人は赤軍として活動し、浅間山荘事件の前に榛名山に殺され埋められてしまった。
何らかの形で活動していた者は進むべき道がわからなくなってしまった。
私もそのうちの一人。
しかし、私は出来るだけ早く、この大学から離れたかった。
留年するのは、親に悪いと思ったし、中退することも、もっと悪いと感じていたから、何が何でも早く卒業しようと考えたのだ。

私は卒業できる単位はなかったが、四年生の6月に東芝を受験した。
すると、なぜか分からないが合格したのだ。
それからは卒業するための単位を必死で取りにいった。
教授とも交渉をした。
そして、結果として、卒業できることになったのだ。

しかし、私自身、岡山大学をこんな形で卒業することには納得いかないものを感じており、卒業式に出る気持ちにはなれなかったのだ。

そんな折、東芝から入寮案内があり、3月18日から入寮できると言ってきた。
早速、私は身の回りのものを横浜の寮に送り、3月22日に入寮した。
東芝への出社は4月1日なので、数日入寮を遅らせて、3月23日の大学の卒業式には出られたのだが、どうしても、私は出席する気持ちになれなかった。

平成29年岡山大学の卒業式

キヌエ姉からは、
「たとえ、えっちゃんが居なくても、私はおばあちゃんんを連れて卒業式に行くことを約束しているから、行くんよ」
と言われた時には心が動いた。
「どうしよう・・・」
しかし、どうしても、私は卒業式のために岡山に残る気になれなかった。
一つには、同じく活動していた多くの友人が留年するのに、自分だけが卒業していくという罪悪感があった。

その後、私は、卒業式にいかなかったことを何度も悔いた。
特に、お袋が亡くなった後、後悔することが多くなった。

若気の至りと言えばそれまでだが、私の居ない卒業式にお袋が行って、果たして何を感じたろうか?と思うのだ。

キヌエ姉はお袋に代わって、私に、
「卒業式に行けてとてもよかったね、おばあちゃん」、と言ってくれるが、
それが私にはいつも胸に刺さって、苦しむのだ。

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