努力によって解決しない

yome_syuto
アメリカの発明王のエジソンは、

「発明というものは、99%の汗と1%のインスピレーションによってできあがる」、と言っている。

汗とは「努力」である。エジソンは努力の大事さを強調した。

ところが、仏教の考え方では、

---努力は人間の問題を解決しない---

と言うのである。そして、それ故に、

---あきらめよ---

と教えるのです。もっとも、この「あきらめ」は断念する諦めではなく、物事の真実を明らかにすることである。

たとえば、身の回りの問題として、嫁と姑の対立、親と子の対立、若者と老人の対立といった問題がある。これらの対立は、人類の長い歴史の間で、ずっと問われ続けてきた問題だ。というこは、ひょっとしたら解決不可能な問題なのだ。そして、その場合は、我々はそれを解決しようと努力する必要はない。綺麗サッパリ解決不可能とあきらめて(明らめて)無駄な努力をやめることだ。それが仏教的な考え方である。

解決不可能な問題を努力によって解決しようとすると、我々は自分か他人を責め始める。解決しないのは自分の努力が足りないせいだと自分を責め、全く自己嫌悪に陥ってしまう。あるいは、逆に他人を責め、あの人が悪いから問題が解決しないのだと、他人を憎んだりする。いずれにしても、自分が苦しむ。努力によって問題が解決できると思うと、そうなってしまうのだ。

中国、唐の時代の禅僧の趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)は、、ある人から、

「どうしたら、煩悩を免れることができますか?」と問われたとき、

「免れてどうするんだ!?」と答えている。この発想も素晴らしい。嫁と姑の対立が人類永遠の問題で解決不可能であれば、その解決に努力する必要はない。解決不可能なんだから、我々はそれに悩むよりほかはない。悩むよりほかなければ、悩めばいいのだ。その悩みがなくなったところで、別段それほど楽になるわけではない。それなら、悩みを悩んでいたって同じことだ。趙州はそう教えてくれているのです。