一時座禅すれば、一時の仏

円爾弁円
仏教とは何か?

仏教は釈迦仏の教えである。

“仏”という語は、インド一般で真理を悟った聖者を意味し、今から2600年ほどの昔、釈迦国出身のゴータマが悟りを開いて仏となったので、その人を“釈迦仏”と呼ぶのである。

---仏になるための教え---
である。

これは仏教の大きな特色である。なぜなら、キリスト教は「キリストの教え」であっても、我々が「キリストになるための教え」ではない。キリストは「神の子」であって、人間とは全く隔絶した存在だからである。しかし、仏教においては、人間(凡夫)と仏とは連続的につながっている。

とはいえ、凡夫が仏になるのは容易なことではない。理論的には、その修業に三大阿僧祇劫(あそうぎこう:永遠と言ってもいいぐらいの年数)がかかるとされている。まあ、我々凡夫が仏になることはあきらめたほうがいい。

でもそれだと、仏教は無意味にならないか?仏教が仏になる教えでありながら、我々が絶対に仏になれないのであれば、なんのための仏教か、ということになる。

しかし、その点に関しては、鎌倉中期の臨済宗の僧の円爾弁円(えんにべんねん)が次のように言っている。

「一時座禅すれば、一時の仏になり。一日座禅すれば、一日の仏なり。一生座禅すれば、一生の仏なり。」

円爾弁円は、最初天台宗の僧であったが、入宋して禅を学び、日本の禅宗の基礎を築いた人である。

諡号(しごう)を聖一国師(しょういちこくし)と言う。

我々は座禅というものを仏になるための手段のように考えている。しかし、それは間違いであって、座禅そのものが仏としての行為なのである。したがって、一瞬の間でも座禅をすれば、その一瞬の間、我々は仏になっているのだ。