何もできない自分

私は、最近、仏教の本を読み始めた。
なぜ、全てがうまくいかないのだろうか?と思い悩んでいるから。
世の中で、犯罪を犯している人がいる。
そんなニュースを見る度に、その犯罪者に対し、可哀想だと思う。
被害者が可哀想なのは勿論だが、同情するのは犯罪者に対してである。
その犯罪者はそこまで追い詰められていったのだろう。


間が悪いと思うことがよくある。
運が悪いと思うこともよくある。
自分のやることなすこと、どうしてうまくいかないのかと思い悩むことしきりである。

若い時にはうまくいったのに、と思うことがある。
自分は努力しているのに、と思うことがある。
どこで、流れが変わったのかと思うことがある。

お釈迦様は、人生には苦だらけだと言う。
老病死別の苦からは逃げられないと言う。
苦とは何ぞや?。
苦とは自分ではどうにもならないことを言うらしい。
唯一、苦から解放される方法は、欲を捨てろと言う。
確かに、欲が捨てられればいいが、そんなことなどできはしない。
お釈迦様の教えは、全てにこだわるなと言う。
全てを受け入れろと言う。

自分だけで生きていれば、それでいいかもしれないが、自分には女房がいて子供がいる。
この女房から、一言、「お金がない。どうするの?」と問われれば、ただただ謝るだけ。
自分のビジネスがうまくいかないから、しょうがない。
子供達からは、「どうしたの、お父さん。しっかりしてよ」と言われてしまう。
60を過ぎた今、働き口を探そうとしても、不景気なこのご時世に、そんなチャンスなど何もない。
借金で追い立てられて、適当にごまかすだけ。
何ともお恥ずかしい姿である。

老いさらばえるとはこんな様をいうのだろうか?
思い返せば、自分の親もそうだった。
自分の息子が金を横領し、その取立てにヤクザまがいの男たちが親を責める。
親は自分の息子を縄付きにはできないからと、自分の長男に400万円を借りて、その支払いに充てた。
長男には自分の持っていた田を売って、その代金で支払った。
丁度その時が、私の大学受験の前の年。
夏になれば、家に電燈は点けず、暗い中で親父と長男、四男と御袋が、ボツリボツリと話していた。
二階で勉強していた私は、畳に耳をこすり付け、話の内容を聞いていた。

幸いその事件は、それで終わった。
親父さんにとっては降ってわいた災難である。
貧しい家に育ち、尋常高等小学校出の親父が努力し、最後は国鉄の機関区長まで出世したのだが、退職金で家を建てたところまでは、良かったが、それから、6~7年が災難の年であった。

その思いを今、自分が味わっている。
仏教では、これを縁だと言う。
因縁生起と言うように、世の中は、直接的原因と、間接的原因の縁があると言うのだ。
種をまくとか、水をやるというのが、直接的原因。
縁とは、お日様が照ること、風が吹くこと、あるいは、動物がその土地を踏み荒らさないことなど、予測も出来ないことが縁なのだそうだ。
その縁とは、自分でどうすることもできない。
ただ待つのみ。
ただ、こんな言葉がある。善因善果、悪行悪果。
もう一つ、この世の中は、相対的なのだそうだ。また、作用反作用があるのだそうな。
すなわち、自分の行いは、回り回って、自分に返ってくると言う。

今は、そんなお釈迦様の声を聞くように、勤めている。
しかし、現実に、妻の悲しむ声を聞くのが辛い。