裁きは神にまかせる

銭形平次、長谷川一夫

野村胡堂の「銭形平次捕物控」には、銭形平次親分が犯人を知っていながら、わざとお目こぼしをしてやる場面がある。

殺された方が、よほどの悪人で、犯人に同情の余地のある場合である。

「花見の仇討」もその一つだ。

平次は子分の八五郎とこんな会話をしている。

「さあ、帰ろうか、八」

平次は立ち上がりました。

「よろしいんですかい、親分」

「いいとも、この上のことは神様がしてくださるよ」

一方、アメリカの法廷においては、時に検事が犯人と取引をする場合がある。

「お前を免罪にしてやるから、お前に指示したボスの悪事を暴露しろ」といったやり方である。

日本人の我々には、すぐには理解できないやり方である。

しかし、この取引の背景には、人間の裁きを究極において神にまかせるという思想である。

Aという男が罪を犯した。

そのAを真に裁かるのは神だけである。

そして、神は今すぐこのAを罰せられるかもしれないし、 あるいは、Aの死後に Aを罰せられるかもしれない。

「そのことは、神に任せておけばいい・・・」といった考え方がキリスト教 徒やイスラム教徒にある。

したがって我々は、ただ、自分たちの社会秩序を維持するために、一応、Aを罰するのであって、その裁きは神の裁きとは無関係である。

だから、Aを免責したって、構わないのだ。

人間が免責にしたって、神は神でちゃんと罰せられるのだから・・・。

私は、この考え方が正当だと思う。

日本人のように、人間が人間を罰することに夢中になることはない。

銭形平次のように、

「いいんだよ、この上のことは、神が、仏がやってくれるよ」というやり方がスマートだと思う。