冥土の土産に


私の母は33年前に他界しました。
享年72歳だったでしょうか。
母がなくなる前にたまたま、
「生きてる間にどこか行ってみたいところがある?」
会っておきたい人はいない?」
「何かやってみたいことがある?」
という話をしたことがある。
すると、母は、
「実は、いつか白い大きな船に乗ってどこかを航海したいと思っていた。」
とさりげなく言った。
私は、今までそんな話を母から聞いたことはなかったので驚いた。
もし、その時、私に実行力と資金があったら、直ぐにその母の思いを実現していたろうが、当時の私は30歳前。
いつか、その望みを叶えてやろうと思っていたが、私は会社で忙しく、海外出張も増えてきた頃。
また、それから間も無く、私はマンションを買い、結婚するなどして、慌ただしく日々を過ごしていた。
私の結婚後一年で娘が誕生。
その年、父がなくなる。
翌年は長男が誕生。
そして、その翌年、母が亡くなってしまった。
結局、母の思いを遂げさせてやることは出来なかった。
それから、33年経ち、家内の父親が95歳、母親は90歳になった。
私は、家内に私の経験を話したところ、早速、家内は母親にその話をしたようだ。
すると、家内の母は、娘に、
「私は、一遍、ボートレスをこの目で見てみたい。」と言ったのだ。
家内から私は、この話を聞き、早速調べてみた。
家内の母は、静岡の伊豆に住んでいるので、行くとしたら浜名湖ボートレースが最も近い。
そこで、私は、家内の母に、
「今は8月で、ボートレースには暑すぎる。だから、行くとしたら、10月がいいでしょう。」
と提案した。
そして、先月30日に行くことにした。
家内は、修善寺に住んでいる家内の母の妹に声をかけたら、「私も行ってみたい」ということになり、四人でボートレースに行くことになった。
当日は、朝8時に母の妹が修善寺からやって来て、車で三島に出かけた。
そこから、浜松まで新幹線で行き、浜松駅で東海道に乗り換え、3駅先の新居町まで行った。
着いたのが11時過ぎ。
新居町駅で降りると、そこはガラーンとしており、電車から降りたのは我々以外にわずか一人。
「今日はボートレースをやっているの?」
と母が聞いたので、私は、
「もうレースは始まっているので、お客はもうボートレース場に行っているんですよ。」
と説明した。
母は足が悪いので、ゆっくりと娘に抱えられて、ボートレース場に歩いて行った。
15分ぐらいかかったでしょう。
予想屋の新聞を2部買い、100円の入場券を買って、場内に入った。
ウィークデイなので、お客の数は予想以上に少なかった。
座席はゆったり座れた。

間も無く第三レースがスタート。
しかし、ガラス張りで囲われていたため、場内アナウンスは聞こえるがボートのエンジン音は聞こえない。
ボートが2周回って、勝負がついた。
あっという間に第三レースが終了した。
母には何が何やらさっぱりわからず。
私が状況説明をするが、ピンと来ている様子ではなかった。
第四レースから舟券を買うことにした。
三連単、三連複、二連単、二連複などを説明していくと、何のことか、さっぱり理解できなくなり、
「任したから、適当に買って」
と全てを私に委ねてきた。
私が買ってきたサインペンを、それぞれに渡したが、それらも戻されてきた。
私は、予想新聞を参考に舟券を買いに行った。
その舟券を見せると、ただただ、笑っているだけ。
第四レースは見事に負けてしまった。
第五レースも3枚の舟券を買った。
すると、6−1で私の舟券があたり、790円の払い戻しを受けた。
しかし、このこともほとんど理解されず、もう昼だから、何か食べに行こうと言う。
場内の食堂に連れて行ったところ、
「もっといいレストランはないの?」
と返ってきた。
ここはボートレースだから、と言うと、ただ、笑っていた。
みんなで、470円の天ぷらそばを食べた。
母は、「もう、十分に見たから帰ろう」というので、出口まで行くと、外からボートの激しい、物凄いエンジン音が聞こえてきた。
そこに行くと、ボートの走りを目の前で見られ、臨場感のある音が聞こえてきた。
母は、これに感動したらしく、ここでボートレースを見ようと言う。
親子と叔母の三人は外の階段に買った予想新聞を敷き、ボートの激しい走りを目前に堪能した。
母は、これを見たかったんだと思った。
天気も良く、暑くも寒くもなく、楽しいひと時を過ごした。
新居町の駅に歩いていくが、この時間に帰る人などいるわけがない。
足の不自由な90歳のおばあさんを連れた一行がゆっくりゆっくり歩いて行くのだから、知らない人はどのようにこの光景を見たのだろうか?
帰りの東海道線では、小学生の遠足帰りの子供達がワイワイと客車に乗っていた。
浜松駅ではお土産にうなぎの弁当などを買った。
駅ビルの7階にコーヒショップがあったのでそこでお茶にした。
叔母が注文したシフォンケーキにみんなびっくり。
母の注文したバナナパイもその大きさにびっくり。
それでも、楽しいひと時であったであろう。
新幹線で母は、叔母と一緒に今日一日の出来事を楽しそうに話していた。
こんなことを言うのは不謹慎だと思うが、今日一日の出来事が、冥土の土産になればいいと心の中で思った。
子供が贈るお土産である。