現代科学の限界
ダーウィンはすばらしい科学者であることは間違いない。
いろいろな生態を研究し、”種の起源”で進化論を解いた。
偶然の重なりで、生命が誕生し、自然淘汰の中で、環境に応じた種のみが生存すると。
生き延びるかどうかは、生物そのものが選択するし、変化していくものだと。
一見して、これは正しそうに思えた。
私も、そのように思ってきた。
そこには、神なるものが入る余地すらない。
しかし、不思議なのはいつも時間的な観念である。
首の長いキリンは、木の高い葉っぱを食べるために、首をより長くしなければならなかった。
これは、理解しやすいことである。
しかし、オスの孔雀の羽の素晴らしさである。
一般的に、科学者の話では、メスを引き寄せるためにそのようになったという。
では、なぜ、メスにはその必要性がないのか?
また、何百年何千年もかけて、どのように変化させることができるのか?
そこにダーウィンだって矛盾を感じた。
そのため、突然変異なるものを持ち出した。
この時点でもう科学ではない。
そもそも、雌雄の区別のないものから、雌雄が生まれたことも、生物自身の意思なのか?
また、子孫を残す方法としてセックスの手段を講じたのも生物自身か?
その場合、男の側と女の側が同時に進化しなければならない。
時間的なスケールで考えてみて、そんなことなどありえない。
自分自身でできないとしたら、第三者が存在し、設計しているとしか思えない。
我々が知るダーウィンの進化論は矛盾だらけで、真実とはほど遠い。