山の声 夫の復員

2014年01月14日

昭和十五年の春、夫は復員してきた。

私がホッとしたことは、言うまでもなく、まずは双方の無事を喜び合った。

一週間ほど経ち、疲れも取れた夫は、まず熊本の山を見に行くことになった。夫は熊本でも宮崎でも、山の地理は詳しいので、地図を描き地名が分かれば、自分一人で行っても分かる人だった。

我が家の経営内容も、いくらか楽になっていたので、早く夫に山を見てもらい、喜んでもらいたかった。

「材木は全然無いぞ。」

夕方帰ってきた夫は、いきなり言った。

「そんな馬鹿な。じゃあ、あなた、別の山を見たんでしょ。伐採した木が、かなりあるはずよ。立木もかなりある筈。」

と叫ぶように言う横から、義父も、

「お前、人の山を見ているぞ。そんな一本もないなんて、おかしいじゃあないか。」

「いや、間違っていない。」

夫は自信を持って言った。

私も段々心配になってきた。山にある木が、洪水で流失したとも考えられず、不思議なことだった。そこで翌日は早々に、皆で山に登ることにした。間違いであって欲しい。多分、間違っていると思いながら、目的の山に来てみると、夫の言うとおり、伐採した木材は、一本も無かった。一体誰がどこに運んだのだろうか。

「盗まれたのだ。」

夫は吐き出すように言った。

しかし、今までにこんなことは一度もなかったので信じられなかった。

私は真っ青になった。この山は皆借金だ。金川木材店には、まだ、いくらも支払っていない。

私の顔色を見て、夫は力づけるように言った。

「仕方がないよ。兎に角、調べよう。」

交番に言って聞き、近所の人たちの話を総合すると、洪水で山鹿道路が、不通となったことを幸いに、反対側の肥後の方に、木材を運び売りさばいていたことが判明した。

犯人は石橋という遊び手のような男を頭に、五、六人と分かった。

裁判となったが、売りさばいた金は使い果たし、無一文の男ばかりだった。

男達は投獄されたが、金は一銭も返って来なかった。

やっとここまで持ちこたえてきたのに、やはり老人と女では、足元を見られたのか。それにしても、なぜもっと早く、誰かを山見に行かせなかったのかと悔やまれた。

夫の復員の喜びは裏腹に、私は我が家の破滅を感じた。

母が、人の一生には、火の色が変わるようなことが何度かある、と言っていたのは、こういうことだなぁと思い知らされた。

しかし、何と無情な、神仏にも見放されたのかと、無念の涙にくれて、数日が過ぎた。

兎に角、盗難の件を、金川材木店に報告しなければと、重い腰を上げて、夫婦で福岡に出向き事の次第を報告した。

「こんな状態ですので、返済期間は少々延びると思いますが、借金は必ず木材で返しますから、金利は免除してください。」
と頼んだ。

「お宅の災難は、気の毒だが、そのための契約だし、契約通りに実行してください。」

先方はその材木を売ったらその利益は出るはずだから、この際金利位助けてくれてもと思ったが駄目だった。

「うちでも、お宅にご用立てしている金は、大金です。材木欲しさに用立てた金で、私の方も、銀行に金利を支払っているんですよ。」
ということで、利息の免除も聞き入れてもらえなかった。

私は精も根も尽き果てた思いだった。無性に腹立たしく、勿論犯人も憎かった。と同時に、こちらの迂闊も腹立たしかった。

このどん底の苦境に立って、
「よし、やり直すのだ。生きて帰ったのだから良いではないか。今日から俺が働くから何とかなるさ。」

夫は胸を張ってみんなに言った。

それから、夫は、モリモリ働き出した。私には今までになく、夫が大きく見えた。

従業員たちも、大将が工場でテキパキ指図するので、進んで協力を示した。急に工場が活気づいた感じだった。

盗難にあったのは、伐採している分だけだったので、立木がまだ半分残っていた。この分を伐採しているうち、道路も開通したので、搬出して出た木材は、金川に送り込んだ。あちこちに少しずつ買っている木材も、かつがつ取り寄せて製材し、工場に積んでいる木材も、倉庫にある製品も、兎に角金川に送り込んだ。

金川材木店からは、どんなに送っても、一銭も金をもらえぬので、時々別の材木屋に送り、必要経費は取っていった。

こういう時期が、半年ほど続いた。

山にも工場にも倉庫にも、材木は一本も無いようになった。

そして、金川材木店の借金は、元利合わせて全部支払い終わった。

夫も、私も、まだ若かった。体力的にも自信があり、一所懸命働いた。夕方、従業員が帰った後は、夫婦で夜業した。

板に製材したものは、結束して、品名、品質、寸法など表示した。製材の廃材は、短く切って、薪に作る仕事や、いろんな作業があった。時には夫が、職工の代わりに、丸鋸の前に立ち、製材する場合、私は向こう側に立って、引っ張る役目をした。

ものすごい勢いで唸りを立てて、回っている大きな丸鋸の前で、近寄ることさえできなかった私が、、慣れとは不思議なもので、平気とはいかぬまでも、どうにか夫の相手を務めたものである。

毎日のように十二時位まで夜業した。この頃は商売の方も、活気が出て、多少は立ち直るかのように見えた。子供は昌三が三歳、美枝子が二歳で、二人とも手のかかる盛りであった。お手伝いさんが居て、母が近くに住んでいたので、何彼と気を付けてくれて有難かった。

子供たちには十分構ってやれず、申し訳ないと思っていたが、こんな両親を見ながら、育った子供達も、彼らなりに得るものがあったのではなかろうか。

人間は落ちるところまで落ちたら、意外と落ち着くものであることをこの頃発見した。

今までは、ああ倒産する、何とかして食い止めねば、また、どうしてこの大金を返済すべきか、明けても暮れても、その思いに押しつぶされそうだった。

しかし、落ちるところまで落ちて、そこについたら、なんだか肩の荷が軽くなったように思いこれ以上落ちることはない、これから昇るばかりだと思った瞬間、今まで死ぬほど悩んだことが、馬鹿馬鹿しいとさえ思えた。

そうは言っても、丸裸となり、無一文の振出しに戻ったのである。

「あなたの留守中、無我夢中で働いた私の苦労は何にもならなかったのね。」

私はしみじみと夫に言った。

「いや、そんなことはない。お前が工場を閉じず、仕事を続けていてくれたから、自分も仕事が出来るが、もし止めていたら、もうこの仕事はできなかった。助かったよ。」

夫はかえって、私の苦労をねぎらってくれた。

その頃、何でも統制が厳しくて、新規の事業の許可は、全然下りなかったからである。

「工場だけは残った。一から二人でやるたい。」
と夫は言い、二人は顔を見合わせて、うなずき合った。

金川も返済が終わった日は、二人して何にもない、がらんとした工場を見ながら、祝杯を挙げた。おかしな祝杯だったが、お互いにご苦労様という気持ちと、再出発の誓いのようなものだった。

私も多方面で、良いことも悪いことも体験しながら、精神的にも大きく鍛えられていった。