山の声 牧園の山

2014年01月14日

都城

三十一年宮崎県牧園に、雑木山を買った。

昔から雑木山を買って、儲けたためしがないというジンクスがあるので、買わぬことを私の兄も、野中さんも求められた。勿論、私は大反対だった。

「あんな遠方に、今頃雑木山なんか、どうして買うのか。絶対儲かったためしがない」と声を大にして、身内の者は止めたが、聞かなかった。

雑木の種類は、松、樅、欅が多く、どの木も百年から二百年、あるいは、もっと年数が経っている木もあった。

あんな大木を、どうして出材するのだろう。私は、考えただけでもぞっとした。この山の価格は、九百万円と聞いた。これは山代金以上に、経費が高くつくことを私は感じていた。

遊ぶどころか、夫の事業欲は、火に油を注ぐよう、次々に燃え盛った。

私は夫の我儘が憎らしかった。

レストランも軌道に乗ったとはいえ、どれほど慣れぬ営業に、また、多くの使用人に、心身を削る思いをしてきたことか、誰も知るまい。今にきっと何かが起こるような不安な毎日の私だった。

雑木山を買った頃、都城五十市駅前に、製材工場付きの土地を、夫の兄さんの初さん夫妻が、現地に行って運営された。

しかし、何しろあまりにも遠方のことであり、家族を残して働くことは、並大抵のことではなく、従って採算も取れなかったようである。一年余りで、夫妻は引き上げられた。

牧園町の雑木も、伐採し搬出もしていたが、何様大木なので、人件費が物凄くかかり、持て余し気味だった。

それと、手形を書いているので、この期日は留守を守る私の所に、次々と回ってきた。これを落としていくのは、並大抵のことではなかった。

その頃の私は、貧血でよく病気した。それでも昼間は店のこと、手形のことに振り回され、夜は、寝つけぬ日が多かった。従って、始終頭痛に悩まされた。

私は、銀行にも始終行った。

上り込んで、支店長や貸付係と話した。

上り込んで、お茶が出されて話をしていると、一寸目には金がありそうに見えるが、上り込んで話す客には、ろくな客はないと私はよく言った。窓口で用の住む客が、一番無難な客である。

都城の製材工場は、休業のままだったが、欲しいという人が現れたので手放した。これをきっかけに、博ちゃんに、トラックの新車を一台上げ、八女に引き揚げさせた。

広川で運送業を始められたが、当時にはかなり動いていたので、運送業の景気は良かったようである。

さて、持て余し気味の雑木山を買う人が現れたので、これ幸いと安く処分した。

儲からなかったけど、私は大嫌いの山だったので、大変嬉しかった。