山の声 久留米レストラン「タイオウ」

2014年01月14日

久留米

さて、日田のレストランは、常連の客も増え、順調だった。

三十一年に小林の山、牧園の山を手放した夫は、多少暇も出来た。この暇が出来るのが夫にとっては危険である。

案の定、夫はもう一軒レストランを造ると言いだした。

「今ようやく、この店が軌道に乗ったと言うのに、また新たに始めるなんて、冗談じゃあない。」

「今度造る店は、自分で見るから、あんたの手は取らぬ。」

「この前もそう言ったじゃあないの。なのに、あなたはなにも手伝ってくれなかった。私が苦労していること、分かってないのね」、と私は腹が立って、言い張った。

反対しようが、いったん思い立ったら、実行に移す人である。一人であちこち、下見をしているようだった。

どうせ、金の出所は一緒である。

とうとう私も下見に加わった。

福岡か大分がいいだろう、ということで、両方の街に行き、街の状況、人の流れなど、見て回った。しかし、日田からあまり遠方だと、手も目も届かぬと思い、久留米位が良いかもしれぬと結論を持った。

営業してゆくうちに、思い当たったことだが、やはり、福岡に出すべきだったと思った。

場所探しに迷った挙句、久留米市西街の目抜き通りに、土地二百三十坪を買い求めた。価格は千四百万円で少々割高と思ったが、人の流れも多く、道幅も丁度良く、商店街なので、レストランには適当と思われた。

ここに、鉄筋三階建てを造ることになり、関係のある日田土建に請け負わせた。

建坪は延べ百五十坪、建築費八百万円で契約した。一階と二階をレストランに使用し、三階は将来別の営業をやるか、貸しても良いと考えていた。

この店の建築の特徴は、二階に上る階段の曲線が、何とも言えぬ美観を添えて素敵だった。

この店も玄関に、ケーキを並べるショーケースを据え付けた。ウィンドウが映えるように、照明も垢抜けたものを選んだ。この時も、私は上京して、東京温泉に居られる長外史氏を訪ね、内装、照明につき、種々専門的にアドバイスを受けた。

参考のためにと、長氏は銀座にある、いくつかの店に連れて行って下さった。殊に銀座にある『コックドール』という洋食の店は参考になった。しかし、東京の一流の店を、そのまま久留米に当てはめるのは早過ぎた。

二階は差し当たり、喫茶にした。

店名を「銀嶺」とした。

レストランの方は、日田と同じに「タイオウ」と名付けた。

夏場は屋上をビアガーデンにすると、生ビールが相当出ていた。

この店も内装費、什器費、諸経費併せて、七百万円位かかったと思う。それに建築費を合わせると、ひとかどの投資である。

このレストランをオープンした日は昭和十二年十二月十七日であった。

久留米の方も徐々に客が増えてきた。

日田と、久留米との掛け持ちは大変だったが、やはり、日田の方は、私を必要とした。

久留米の店も、落ち着いた頃、夫はまたまた熊本に山を買った。

まだ契約せぬ前、山の噂を聞いた時、極力私は反対し、かつ買わぬことを懇願した。今、山に投資したら、店は二つとも駄目になることを強調して、思い止まるよう出て行く時、追いすがるようにして頼んだ。

しかし、帰ってきた夫は、二つの山を契約していた。わたしは、これでお終いだと直感した。いかに努力しても、片端から壊れてゆく現実を、私は怒り狂い、夫と激しく争った。

日田と、久留米のレストランが残りさえすれば、将来私達の生活は保証されたことになるのに、何で山に投資するのか、夫のエゴと思わざるを得ない。

子供が玩具を欲しがるように、一つ完成すると次が欲しくなる。絶えず彼は、興味を持ち続けなければならぬ。

そのためには、周りは犠牲にしてでも、実行する人である。彼は実業家の素質はない。この人に付いて行っても、私に幸せは来ないように思われた。

山を買えば、金をつぎ込むことは必定である。銀行から借りる。次は手形が回ってくる。このやり繰りは今までいやというほど繰り返してきた。計算済みである。

日が経つにつれ、足を引っ張られ、当然、店の経営も苦しくなった。どちらの店か売らねばという夫の話も現実となってきた。

日田には、ちゃんとした住居もあり、私は日田を確保したかった。

しかし、日田の店を欲しがる人が、是非にと言われ、日田を手放すことになった。

久留米の店の二階に、移り住んだ私達には当分風呂もなく、近くの銭湯に行った。

夫は相変わらず、山に行くことが多く、店は私の肩に大きく伸し掛かり、従業員も十五人ほどいたので、大変だったが、第一山と店との資金のやり繰りが何より重荷だった。

たっての先方の希望により、二年後一階だけ、パチンコ店に貸した。家賃を九万五千円で契約した。そして、二階の喫茶だけ私が続けていた。

結果的には、この建物全部を処分し、福岡の箱崎で暮らしたが、振り返ってみると、この一年間が、一番私の安らげた時のように思う。その時点では、店を処分した現金を相当持ってもいた。

この箱崎は飛行機の騒音があったので一年後、平尾に一軒借りて移った。昭和三十五年の四月である。

私達は、平尾に移ってから、翌年住居を隅田浦に建てた。また、市内に二,三ヵ所土地も買った。