激動の昭和の時代に、九州の一人の男が、山に生きる


三十歳で未亡人となった母は、再婚はしなかったので、女としては寂しい一生を送り、子供の成長だけを楽しみに、生きたようである。

私にとって、父は物心つく前から居なかったせいか、父が居なくてもどうということはなかった。死んだという実感もなかった。

けれど、私が物心ついて、

「女ばかりの家と思って、馬鹿にしている」
と、涙をためながら、母が悔しがっているのを見るたびに、父が居たらいいのになぁと、思ったものである。

しかし、母はくじけてはいなかった。前向きに強く生きていった。

母はいろんな人の悩み事の相談相手にもなっていた。

殊に、結婚式にはよく頼まれていた。当時の田舎の結婚は、自宅で式を挙げて、お客の料理も全部整えていた。そのためには、その道に詳しい人が必要だった。

母はその点総てに通じていたので、その式に招かれていたのだ。

結婚式は夜の明けるまでにぎわい、寝る間もなく、翌日は「喜び」と言って、、知人や近所の人や友人に、花嫁の披露をしたものだった。

実際の広い家では、三日間くらい祝宴をはった。

だから、花嫁は、ろくに寝ることもできず、可哀想なものだった。

結婚式の後の新婚旅行の甘いムードなど、無かった時代である。

私もよく小さい時から、結婚式のお給仕に雇われた。雇われても給金などは出なかった。

お行儀や、客の前に出ての、マナーなどを自然に学ぶために、親も頼まれれば、喜んで出したものだった。

私は片親のため、三々九度の時の、男蝶女蝶の役だけは、勤めることはできなかった。

私の母は踊りも上手で、よく槍さびや、春雨など踊っていた。また、花嫁衣装を揃えるのにも、呉服屋に同行を頼まれた。品物の見分けや、柄の選び方などの専門家だったからである。

日頃、和裁を仕事としていた母は、忙しい中で教えてもいた。若い娘さんたちの出入りも多く、四,五人はいつも習いに来ていた。