激動の昭和の時代に、九州の一人の男が、山に生きる


私には自分の時間などはなく、モンペははき通し、髪は梳(くしけず)るだけ。顔にクリームなども塗らぬ日が多かった。鏡に向かっている時間もなかった。朝から働き通しだったからである。一体どんな格好をしていたのか、誰が見ても女らしさなどなかったに違いない。その上、お腹は大きいし、さすがに疲れるようになった。母が見かねて、肌が荒れているから、使うようにと糸瓜水(へちますい)を持ってきてくれたが、あまり使わなかったような気がする。

昭和十三年十一が圧に、長女美恵子が生まれた。今度は女の子で、喜んだが人手がないので差後二,三日すると、私は寝ながら算盤を持ち、送り状や仕切り書を書いた。

材木屋に事務員は絶対必要だが、私の工場では雇えぬので、事務的なことは一切私がやった。別に分かる人がいないので、私の枕元に何でも聞きに来た。だから、ゆっくり寝ていることはできなかった。

そんな私を見て母ははらはらした。

「血の道は後々体に触るので、気を付けないと怖い。日の経たぬうちから、頭を使っていたら、きっと後悔せにゃあならん。」

喧しく母は言ったが、人手がなくて、私もどうしようもなかった。

このような日が続いた或る日、私は便所に行こうと思って立ち上がったら、頭からスーッと血の気が引き、冷や汗が流れて意識がぼんやりしてきた。そして、大きな音を立てて倒れた。その音を聞きつけ、二階には母が駆け上がってきた。死んだように倒れている私を見て、母は仰天し、

「お医者さんを早く。」

と母が階下に向かって叫んでいるのを、別世界の遠いところから、かすかに聞いているような気がしていた。

やがて、お医者さんが来て、処置してもらい、しばらくして、意識が戻ってきた。原因は極度の貧血と疲労とのことだった。

この後より、私は理由もなく、肩こりや頭痛に悩まされた。頭のすっきりしている時の方が少なくなり、度々寝込んだ。これは現在もまだ残っていて、産後の養生の大切さを思い知らされている。