激動の昭和の時代に、九州の一人の男が、山に生きる


取りあえず茂田井の松山を、見に行くことにした。乳飲み子を連れ、夫について行った。

松山まで行く途中、木間道が掛っていた。二本のレールを並べ、枕木は小丸太を打ち付け、その上を木材を積んだ橇(そり)が通るのである。山道だから殆ど傾斜で、よほど熟練した人でないと危険である。

私は子供を背負い、この二キロほどの木間道を、死ぬような思いで歩いた。

この山の奥に老夫婦が住んでいて、そこにその晩は泊まることになっていた。私はほうほうのていで、夕方その家にたどり着いた。

昌三は生まれて六ヵ月経っていたが、私にとっては初めての子なので、扱い方も不慣れ。それでも、夜は暗いランプの下で、不器用な手つきで、赤ん坊を風呂に入れたり、ミルクを作ったりした。風呂は五右衛門風呂で、洗い場はデコボコの板張りなので足場が悪く、滑らぬように気を配らねばならなかった。天井は低く頭を打ちそうだった。また、天井も壁も煤で真っ黒だった。そこをランプの灯りが、薄ぼんやりとあたりを照らしていた。

私はすっかり疲れ切っていた。

あれだけの危険な道を、子供を背負って歩いてきただけでも重労働だった。

必死の思いで、赤ん坊を風呂に入れ、自分は汗を流すだけが精一杯だった。

昌三も疲れたせいか、いつもよりむずかり泣いた。ランプを消せば、真っ暗闇だし、迂闊に動くこともできなかった。

手探りで赤ん坊の顔を撫で、反応があれば生きていると安心したものだった。

赤ん坊も私もよく眠らぬまま夜が明けた。

初秋なのに、山の空気は意外と冷え込んでいた。山中に虫の声が、しきりに聞こえていたが、私はその時、そんなことに感傷はなかった。私にとっては、既にすでに戦争が始まったのだと、痛感していた。