激動の昭和の時代に、九州の一人の男が、山に生きる


小野市の山を見てきて暫くした十三年の六月十五日に、予想通り召集令状が来た。

今日か明日かと思っていたので、さほど驚きはしなかったが、いざ直面してみると、話し合わねばならぬこと、聞いておくべきこと、取引先のことなど、とても一日や二日では、満足に引き継ぎはできなかった。

私は子供ができてからは、育児に追われ、商売の方は深くかかわっていなかった。

取りあえず親類の者、二、三人に来てもらい、出征後の工場運営について、そのまま続けるか否かを話し合った。

出征ということは、運が悪ければ、戦死するかも知れないわけである。

私の実家の兄夫婦は福岡に住んでいて、母は一人暮らしだった。もし、私が工場を閉じれば、私ら親子は実家に住んでもいいと母は言ってくれた。

夫の実家では、工場をそのまま営業するなら、まだ義父が健在だったから、手伝うと言ってくれた。

要は私の決断にかかっていた。

その時既に私は二人目を身籠っていた。

一歳の長男と夫出征後に生まれるはずの乳飲み子を抱え、工場の継続は、並大抵のことではできないことは分かり切っていた。

私は、まだ材木屋の経験も浅いし、殊に材木屋は、男の商売でもあった。

それなら、いっそ工場を閉じて、実家に帰ろうか。

しかし、そのうちに、当然兄にも召集が来るだろう。兄が出征すれば、家族は実家に引き上げるに違いない。兄にも子供が二人いた。そんな実家に、私が二人の幼児を連れて住むことなどできる筈もない。

こう考えてきた時、私は決断した。

「やはり、工場は私が続けてゆく。苦労は目に見えているが、どの道を選んでも、心配苦労するなら、自分の工場を守って頑張ります。」、とみんなの前で言った。

「二十四,五歳の女で、しかも、一歳と赤ん坊を抱えてはなぁ」

誰が考えても、無理な話だった。しかし、反対する者は誰もいなかった。

「とにかく、しっかりやってみれ、自分たちも出来るだけ応援するから。」と言って力づけてくれた。

深く考えれば、私は気が狂いそうだった。

昌三はまだ手のかかる最中だし、やがて、主産もしなければならない。商売のことも勉強せねばならぬことが山ほどあった。

私は悲愴な決意をした。

六月十八日に夫は出征した。

この部隊は昭和十二年、京都で編成された。当初は上海派遣軍、司令官は松根石根大将で、上海地区作戦、南京攻略戦に参加した。引き続き中支那派遣軍、司令官は畑俊六大将の配下で、徐州作戦に参加した。さらに、第十一軍司令官の岡村中将の配下に入り、武漢攻略戦に参加した。その後、武昌に本廠を置き、江南地区、西は岳州、南は南昌、東は九江までを範囲として、自動車廠業務を遂行していた。

夫が出征した後の日本国内は、大変不景気となり、特に木材業界は打撃を受けた。

馬も馬車も自動車も、徐々に徴発された。その上仕事の注文が無かった。私の工場では、儲からぬのを承知で、鮮魚箱を作らざるを得なかった。製品は福岡の魚市場に出荷していたが、価格が安くて、採算に合わなかった。品物は常時だぶついているので、安くしても引き取ってくれず、買い叩かれるばかりだった。しかし、換金せねば、賃金も払えないので、泣く泣く安値で売りさばいた。

その頃までは、兄あ福岡にいたので、売り込みや、価格の交渉など、してくれて助かった。

年末には、一層不景気の波が押し寄せ、値切られた品物の代金も、支払いを引き延ばされた。年末には、人夫賃、馬車の運賃、その他雑多な支払いがあったが、内金で支払わざるを得なかった。

暮れの三十一日には、夜遅くまで、借金取りが押し掛け、やがて、人が去った後には、私たちは金もなく、正月の用意も出来ていなかった。そのうえ、借金取りには、散々嫌味を言われた。

「大体、若い女のみで、このような仕事をやっていくのは無理だ。おとなしく止めていたが、よかじゃあなかね。」

と幾人もの人が言った。

「大変じゃろう。今不景気じゃけん、仕方なかもんね。頑張らんね。」、と優しく言って、慰めてくれる人もいた。

正月のおせち料理は、母がいろいろ作って、持って来てくれた。何も用意していないことを知っていたからである。

親とは本当に有難いものだと思った。早く娘を嫁がせ、安心したいと願っていた母なのに、心配が絶えない母を思い、お節料理をしみじみ味わった。