激動の昭和の時代に、九州の一人の男が、山に生きる


昭和九年の五月、私は材木屋に嫁いだ。

私は二十一歳になったばかり、夫は二十八歳だった。

夫は製材工場を、八女の星野村に当時持っていた。私はそんな奥に住みたくないので、工場を移転することを希望した。夫もその移転の件は、かねがね考えていたらしく、私の話には直ぐ同意した。

移転先の土地は、仲人だった野中さんの世話で、私たちの村の村有地を、借り受けることができた。

この土地は県道に面し、八百坪ほどあり、毎年村で芝居小屋が掛り、賑わっていた土地だった。

敷地は借り受けたので、早速移転に取り掛かった。まず向上を立て、簡単に住居を作り、製材機械を据え付けた。その設計も、据え付けもほとんど夫がやっていた。

機械の試運転ができ、仕事が始められるまで約二ヶ月を要した。

移転費と建築費が相当かかったと聞いた。結婚から引き続きのことだから、金も無理をし、借金もできたことは確かだ。

夫はその頃、矢部の日向神に大きな山を手掛けていた。

山道をトラックの通る道に拡げ、川にかなり長い橋をかけていた。

現在もこの道と橋は整備され、周辺の山林も人家も、恩恵を受けていると思う。

この山裾に大きな山小屋を建てていた。結婚早々、この山小屋に、二、三日滞在した。

夕方になり、私は風呂を焚いていた。薪は杉の枝とか、小丸太である。火力を増してきた火は風呂の天井に燃え移った。天井と言っても杉皮葺きだから、杉皮が枝の隙間から、はみ出していたことと思う。

私は驚き風呂の水を、手桶でかけていたが、一人では消せないと思い、『助けて』というようなことを、山の頂上に向かって叫んだ。

夫も人夫達も、山の上層部で働いていた。声を聞き、煙も見えるので火事と分かり、七,八人でどやどやと降りてきた。幸い早かったので、風呂の天井を焼いただけで消し止められた。

これが結婚早々の私の失敗である。

私は商売のことは全然無知だった。

結婚して先ず驚いたことは、あまりにも金のないことだった。食べることには、さして事欠かぬまでも、借金取りが多く、半分以上は断らねばならなかった。

さらに驚いたことは、夫は平気な顔をして、断っていたことである。

「今日は無かよ」とか、

「今日は無か無か」

と涼しい顔をして、断っている夫の顔を見て、私は今まで見なかった世界に自分がいるような気がして、夫を見守るばかりだった。

私は、それまで借金の断りなど一度も言ったことはなく、夏物は現金で済ますので断る必要もなかった。

今までの自分の生活と、あまりにも違うので、益々商売が嫌いになった。

私たちの製材所は、おが屑で動力を回していた。おが屑を入れる煙突は、高さ五メートル直径一メートルの円筒で、上部まで梯子が付いていた。煙突の下部は釜で、焚口があった。

工場でできるおが屑は、機械でこの煙突の中に入れられた。つまり、電気の代わりに、この火力で製材機を廻していたのである。

この装置も夫の発案らしく、当時電力も節約しなければならない時代だったので、他の製材所からも見学に来ていた。

この円筒の中のおが屑に、最初点火する時、ガソリンが少々必要だった。

工場の近くの石井商店に、一日おき位に一缶のガソリンを買いに行った。

本当はドラム缶で買っておけば能率的なのに、金がなかったわけである。

石井商店のおかみさんは、変哲者で水商売上がりの人だったので、思ったことは何でも、ズバリ言う人だった。

やや色黒に、いつも厚化粧していて、好感が持てなかった。

朝、うちの工場の者が、

「ごめん下さい」

と呼びかけると、

「野村さんじゃろ、現金ばもらわにゃできんばい」

と叱るような大声で、店先にいる自分の主人に言っていたようである。

最初は付けで買っていたが支払いが遅れるようになり、催促されても、なかなか払えなかったから、やむを得ない話である。不能率な話である。

夫は機械いじりが大好きで、機械をいじっている時は、食事で呼んでも、なかなか来なかった。

ある日のこと、返事だけはするが、何度呼びに行っても手は止めず、もう直ぐ行くと言うだけ。そこで、また、温めるとまた冷えるまで来ず。ところが、こちらがしびれを切らした頃、

「さあ、食べるぞ」

とやって来たが、もう私は待ちくたびれて、腹が立って、食欲もないようになっていた。