激動の昭和の時代に、九州の一人の男が、山に生きる


昭和二十八年六月に大洪水が起きた。

三日前から降り続いた雨に、三隈川は水域を越して、水は両岸にあふれ出した。一時間も経たぬ間に周りの人家は床上まで浸水した。

深夜のこととて、人々は寝間着のまま、起き出し、右往左往の大混乱となり、泣き叫ぶ者、助けを求める者、荷物を持ち出す者、懐中電灯に照らし出された光景が、影絵のように映った。川も道路も見分けがつかず、水一色となり、樹木は根こそぎ倒れ、それが水をせき止めもした。せき止められた場所は、水が盛り上がり、凄まじい勢いで渦を巻いていた。家、樹木、家財道具類の雑多なものが、水に流されていた。半鐘が滅多矢鱈に鳴り響き、消防団が救出に当たったが、暫くはこの自然の猛威に、手の下しようが無かった。

私の住居のある三本松町は、市内でも少し高い土地なので、浸水はしなかったが、前の道路は川となり、少々坂になっているので、水はすさまじい速さで流れていた。

叩き付けるように降る風雨の夜半、ドンドンと強く戸を叩く者があり、戸を開けると、転げ込むようにして、ずぶ濡れの人々が、ドヤドヤと這入って来た。

夫の友人の西隈さんの一家だった。西隈さんの住いは、小渕の三隈川沿いの町なので、家も家財も流失し、命からがら、私の家まで、逃げて来たのであった。

その晩は幾人かの町の人達が、私の家で夜を明かした。一夜明けて、改めて洪水の凄まじさに驚いた。

一両日して少しずつ、水は引き始めたが、復旧作業は大変だった。降雨量は300ミリから400ミリと、ラジオは報じていた。

西隈一家は、私達より早く、八女から日田の姪を頼って、小淵に引っ越し、製飴業をしていた。

この水害をもろに受け、機械類も、家財ももちろん、家も流失したので、無一物となった西隈一家は、我が家の二階に一ヵ月ほど暮らした。急に人数が増え、我が家も食料、衣料と気をもんだものである。

当時、私達は、日田市の田島町に三百坪ばかりの土地を持っていた。その敷地の中に古家が二軒あり、空き家だった。この土地は、よく整地された土地だが、使っていないので草だけは生えていた。

西隈さん達は、いつまでも、我が家に同居も出来ず、田島にある空家の一つに移ることにした。

大工を入れて少し繕い、風呂、台所を整え、畳、襖を替えると、七人の家族が住めるようになった。

引っ越す時は、布団、食料、衣類、食器類など、家にある物を出来るだけ分けてあげた。この土地で、西隈さんは再び製飴業を始めた。二年後に、住宅公庫で住宅と工場を建てられた。製飴業は繁栄し、現在息子さんが後を継ぎ営業されている。