激動の昭和の時代に、九州の一人の男が、山に生きる


レストランが、軌道に乗ってきたころ、日田市田島に持っている土地に竹工場を始めた。三百坪位の土地に、古家が一軒あった。

竹工場の責任者は佐原という人物で、この仕事に通じているらしく、この人に是非やらして欲しいと頼み込まれて、始めたのである。

佐原氏は、六十歳位の割合小男で、奥さんと二人でこの古家に住み込んだ。

竹製品というのは、孟宗竹を使用し、一間物、五尺物、四尺物という長さに切り、それを一センチ、一センチ五ミリの幅に割り、それを薄く剥いで、天日で乾燥し、出荷するのだった。

出荷先は、山口県萩市の問屋で、其処に出荷していたが、私はあまり関心がなく、詳しいことは知らないが、問屋のある萩市には、一,二度集金に行ったことがある。

しかし、この竹の仕事は、意外と人件費がかかり、雨季には感想が悪く、カビが生じて、売り物にならぬこともあり、利の薄い仕事だった。

これは人の手仕事なので、設備にはあまり金は掛かっておらず、監督もしなかった。

この品物は、東南アジアの方に出荷していたらしいが、次第に需要が減って、仕事にならなかったようである。三十一年から初めて二年余りで佐原氏は、この工場を閉鎖してしまった。