激動の昭和の時代に、九州の一人の男が、山に生きる


山奥の製材所に設備するには、大変な労力と経費を要した。建築用の木材は、かつがつ伐採し、木を利用した。他の資材は総て八女から運ばねばならなかった。一番大変なのは食料だった。

これだけの人数の食料は勿論、ほとんどの物資が統制されているので、勝手に購入すること自体、難しいことだった。ほとんどの物資は闇買いせざるを得なかった。

諸物資の中でも、食料を山まで届けることは、至難中の至難だった。

味噌、醤油、漬物などは、四斗入り樽で購入し、麦粉、砂糖、野菜類、魚肉類、乾物類、石鹸、タオル、靴下に手袋、地下足袋、医療薬品、煙草など数え上げたらきりがないほど雑多なものを必要とした。食料を運ぶのは、大抵夜だった。しかし、交番は夜中まで見張っていた。度々、黒木の交番でトラックを止められた。

統制品を積んでいれば荷を降ろさせられ、没収された。没収された品物を後で貰い受けるのも大変だった。

輸送の時は、運転手だけに任せられず、誰か交番と交渉できる人が同乗していく必要があった。

私も時々この車に乗り、取り調べられたことがある。

一旦品物を降ろせと言われて、降ろすこともあったが、大抵は降ろさぬまま話し合った。

「あんたん所は、いつも闇ばかりして、何度止められても聞き入れぬ。大体、警察をなめとろう。」

「決して良いこととは思っておりませんが、山では人夫たちが、食料が無くては働けないもんですから、止むに止まれぬ気持ちで買っております。唯、この物資で一銭でも儲けることはありませんので、その点は分かって下さい。」

こんなやり取りで、時には一時間以上も粘って話すこともあり、没収されずに切り抜けた。私も我ながら、口が上手になったものと思っていた。お巡りさんも、いつの間にか顔なじみになり、時には見て見ぬふりをして、やり過ごしてくれた。

更に、今一つの難問は道路だった。

二、三キロの山道は、雨が降れば水が溜まり、どろどろのぬかるみになった。そこにタイヤがめり込んで車は動かなくなる。

近くにはバラスがないため遠くから運んできた。バラスを入れても入れても、一向に道は固まらず、どこに入れたかわからぬほど、めり込んでいった。

「本当に金食う道だなぁ。」

どれほど、こういって嘆いたことか。一度、深みにタイヤを取られたら、自力で上がれず、幾人かの応援を頼み、それでも動かねば、積み荷を降ろさねばならなかった。

スムーズに車が動けば、日に二回は往復できるところを、一回も行けぬ日もあり、そんな時ほど人手まで食った。

このような道路のため、木材運搬が遅れ、金回りが全然良くならない。これでは行き詰る。もう、既に行き詰っていた。気持は、毎日焦り立つばかりだった。