縁は異なもの

2014年01月10日

昔から縁は異なもの味なもの、と言うが、これは、まさしく言い得て妙である。

最近つくづくそう思うシーンに出くわすことが多くなった。

縁といえば、やはり、妻である。

もう30年も前に、出会った妻のことを最近考えることがある。

なぜ、あの時、妻に出会い、なぜ、結婚をしようと決断したのだろうか?と。

これは後悔して言っているのではない。

感謝して言っているのだ。

その後、3人の子供に恵まれ、幸せに生活できたのも妻のお陰と感謝している。

しかし、最近、テレビで面白い番組を見た。

今は科学の発達により、遺伝子の解明がどんどん進んできている。

遺伝子を研究してみると、なんと、人間の遺伝子情報の99.9%は、人類みな同じであると言う。
たった、0.1%の情報が違うだけで、個体差が違うのだと言う。

また、子供の遺伝子には必ず母親の遺伝子の一部が残るという。
すなわち、遺伝子を調べていくと、人間の先祖はアフリカに住んでいた一人の女性に行き着くと言う。

ここで私は考えた。
子孫を残すということは母親の子孫を残すということ。

その意味から、実は、自分中心に物を考えていたから解らなかったが、遺伝子的に考えると、
妻の遺伝子を残すべく、私が妻の魂に吸い寄せられていったのだと理解するようになった。

私は、妻の求められるように生きていけばいいことに気がついた。

全ては妻の発信する信号に合わせて生きていけばいいと。

何か、没主体的な生き方と、批判を受けるかもしれないが、生物学的にはそう考えるほうが自然である。

そこで、最近、こんな妄想を抱くようになってきた。

妻にとって必要だった私の魂は、実は妻の魂の一部ではないだろうかと。

もともと、単細胞動物は雌雄同体。

そこから進化しているとすれば、子孫を残すために雄が作られたとしたら、そう考えても不思議ではない。

縁は異なものというが、魂レベルでは同類のもの。

すべて、子孫を残すための人生と考えると、縁あるものは全てがそれに係わる女性にゆかりのある魂の集団と考えれば解りやすい。

隣のおばさんは、残念ながら縁はあるが子孫を残すという意味では、あまり縁があるとは思えない。

しかし、隣のおばさんが、果物や野菜を持ってきてくれるとしたら、生命維持のためには縁のある魂の持ち主と考えるべきだろう。

生きるヒントを教えてくれる人も、縁のある人。

喜びを感じさせてくれる人も縁ある人。

意地悪をする人は?

これは生命維持の観点から、縁ある人とは思えない。

改めてそんな目で見たら、こんな所にも縁のある人がいたんだなと思う。