朝題目に夕念仏
「朝題目に夕念仏」といった言葉がある。無定見な人をからかった言葉である。たいていの辞書にそう解説されている。
題目というのは、一般に経典の題号である。しかし、日蓮宗の開祖の日蓮は、「法華経」の正しい題目である『妙法蓮華経』にこの経典の全生命が宿っていると考えた。
すなわち、『妙法蓮華経』は単なる経典の題目ではなく、『法華経』に説かれた宇宙の究極の真理を意味するものである。そして、我々が、「南無妙法蓮華経」と唱えることによって、その真理に帰入できるとした。したがって、日蓮宗では、「南無妙法蓮華経」の題目を唱えることを重視するのである。
これに対し、日本において念仏は、主として浄土宗や浄土真宗の信者が唱えるものである。
本来、念仏は、仏の姿、形を憶念するものであった。しかし、後には口に仏の名を称することを念仏というようになり、とりわけ、阿弥陀仏の名を称える「南無阿弥陀仏」が念仏とされた。
我が国の浄土宗の開祖の法然は、ただ、「南無阿弥陀仏」と口称するだけで、阿弥陀仏の極楽世界への往生が約束されると説き、他力信仰の念仏を確立した。
したがって、「朝題目に夕念仏」は、朝には日蓮宗の信者、夕には浄土宗・浄土真宗の信者になることを意味する。しっかりした信仰を持たぬ無定見さが非難されているのだ。
けれども、仏教は元を正せば釈迦の教えである。そして、釈迦の教えは、「対機説法」と言われ、相手の素質や能力に応じて、それぞれに相応しい教えが説かれたのである。たとえば、怠け者には厳しい修行をせよと叱り、極度に張り詰めた修行をしているものには、もっとのんびりせよと忠告された。その結果、仏教に、
---「八万四千の法門」---
ができた。八万四千は誇張表現であるが、ともかく数多くの教えが仏教にあるのである。
すなわち、題目も念仏もともに仏教の教えであることを我々は忘れてはならない。