横浜こぼれ話は筆者の佐藤栄次が随筆や意見や考えを書いておりますので、一度見に来てください、

私のお袋が既に死んでもう20年近くになろうか?
親父が死んだ翌年に亡くなった。
息子・娘を10人も生んで育てた。
車で30分以内には娘、息子は住んでいたが、日々は広い家に一人で住んでいた。

体重が重かったため、足を悪くしていた。
買い物は自分で出かけていたが、やはり、外出したくはないようで、一日家にいることが多かった。

ある夏のお盆の日、私は横浜から久々に家内と子供たちを連れて帰った。

孫はその時は既に18人いたが、私の子ども二人で20人目。
孫の顔を見るとやはり目を細めてみていたのを思い出す。

5日間があっという間に経ち、明日、横浜に帰るという時、私はお袋と話をした。
いつも、一日が終わると、夕方仏壇に向かい、死んだ親父と話をするのだと言う。
その時が一番うれしいと言うのだ。
その後で、簡単に夕食を済ませ、日記を書くのだと言う。
私はその日記帳を見せてくれというと、茶箪笥の引き出しから手帳を出した。
小さな手帳だった。
小さい字で一日のことが書いてある。
私は、直ぐに家内に頼み、大学ノートを買ってきてもらった。

私はそのノートをお袋に渡し、「この方が書きやすいから」と言った。

翌日私は子供たちを連れて横浜に帰った。
流石に、別れが辛かった。涙も止まらなかった。
子供達は私の涙を見て不思議に思ったことだろう。

それから、2か月が経った。

そして、ある晩、田舎の兄貴から、「お袋が危篤だから・・・」と電話があった。

私は、来るべき時が来たと直感した。

病院に着いた時は人工心肺をつけられ、無理やり呼吸をさせられていた。

その晩は私は病院に泊まった。

夜中の3時頃、待合室のベンチで転寝をしていた時、看護婦がやって来た。

看護婦に連れられて行くと、医者が、もう血圧も50以下になってしまった。

「どうしましょうか?」と問われたので、私は、
「もう、人工心肺をはずしてやってくれ」、と頼んだ。

その瞬間、お袋は天に召されていった。

それから数日葬儀の準備でバタバタしていた。

私は、家内と子供たちと一緒に仏壇に手を合わせ、家を離れた。

その時、お袋に渡した日記帳の大学ノートと手帳を持ち帰った。

横浜に帰り、私はじっくりと大学ノートを読んだ。

そこには、我々が別れたあの日から2カ月のお袋の日記がびっしりと書かれていた。

その中に、
「今日は、足が痛かったから、おじいちゃんに話に行く時、杖をついて行った。」

と書かれていた。

家の中の仏間に行くのに杖をついて行ったのかと思った瞬間、涙が流れた。

あの大学ノートをプレゼントとして渡したのではないが、それが、私のプレゼントとなった。

しかし、それがお袋からの我々の宝になった。