中国友好公司の山東社にはそれまでも東芝から若いスタッフを応援として送り込んできたが、彼らのほとんどが腐り切って会社の中で、やる気を無くしてしまった。 もう、こんな所には居たくないから帰してくれと悲鳴が飛んで来た。 その理由は、会社の方針があ …

中国友好公司の山東社にはそれまでも東芝から若いスタッフを応援として送り込んできたが、彼らのほとんどが腐り切って会社の中で、やる気を無くしてしまった。 もう、こんな所には居たくないから帰してくれと悲鳴が飛んで来た。 その理由は、会社の方針があ …
中国ビジネスは1980年代に入り、鄧小平の改革開放路線に乗り一気に活発になっていった。 まだ、中国経済の方向がはっきりしないことから、東芝も手探り状態であった。 そこには中学卒上がりの福山の存在があった。 彼は、中国友好公司の山東社を使い、 …
増井という男は私より2歳年上。 明治大学法学部卒で、東芝医用機器事業部玉川工場生産管理に配属されたそうだ。 私が増井と出会ったのは、私が国際部に移動して数年後だった。 増井は本社の放射線の生産管理という仕事で会ったのが初めて。私が納期の確認 …
東芝には、いろんな人間がいたが、どうしてもこの二人は特筆すべきである。 一人は横嶋という男。多分、私より4歳は上かと思う。 私が、北米担当になるというので、メキシコ出張の帰りに、ロサンゼルスにある東芝アメリカ(TAI)の本社に寄った時、総務 …
サウジアラビアの新規代理店作りのため、エジプトのラカーとサウジアラビアに入る。 お供として、木曽さんとラカーの有能なスタッフ二人。 この木曽さんとは日商岩井の新入社員の時、東芝に挨拶に来て私は初めて会った。 日本人離れした顔立ちで、東芝の若 …
タイにはチャンさんという素晴らしい人が東芝医療機器販売代理店の社長だった。 私がタイに初めて入った時、このチャンさんと会って、色々と話しをした。 チャンさんの実直な人柄で大学病院などにも顔が知られていた。 ところが、私が会って一年後に残念な …
実は、サウジアラビアの代理店をどのように探し、いつからビジネスをスタートしたか、前任者から引き継ぐ時、具体的に聞いていない。 前任者の時もあまり活発にビジネス活動をしていなかったようだ。 ところが、シカゴの北米放射線学会(RSNA)にも毎年 …
海外営業をしていて、全てが上手く行くわけではない。 販売活動が上手く行かず、代理店を切らなければならないこともある。 私の主義は、基本的には代理店を支援して、成功させてやりたいと思ってやってきた。少々、営業成績が悪くても、切るという考えは持 …
南アのビジネスは予想以上に伸びた。 マンデラが釈放されて返った後、国連からの支援や、各国からの投資などで経済は活発になっていった。 マンデラ以前はレストランにはドアに鍵が掛かっており、ドアをノックすると、ドアの覗き窓が開き、客が黒人ではない …
南アのアパルトヘイト撤廃で、南アは大きく変わっていく。 東芝の販売代理店も新たにベジェレとマイクによりTECMED社がスタートした。 ベジェレはドイツ人で、マイクは2〜3代前にオランダ人の先祖が南アに来たと言う。 この会社はベジェレが実質の …