激動の昭和の時代に、九州の一人の男が、山に生きる


私が女学校を卒業した翌年、いつもお世話になっている野中さんから一つの縁談が持ち込まれた。この人は遠縁にあたるけど、裏隣りで、親しく行き来していて、私も大変かわいがられた。私はおじさんと呼んでいた。

おじさん夫婦には子供が居なかったので、小さい時から私はこの家でよく遊んだ。

このおじさんも、村では財産家で、長老として尊敬されている人だった。

このおじさんは、毎晩のように来て、縁談を勧めた。

私は、まだ結婚のことを考えていないと断り続けたが、仲人があまりしつこく来られるので、母もだんだん乗り気になってきて、やがて、母が私を説得するようになった。

「そんなこと言とったら、すぐ年取って、どこからも貰い手がないようになるから、人が望むうちが花よ。」

前にいつか聞いたことがあるような言葉で、母が言うようになった。

当時としては、十九、二十歳は一番の適齢期であった。

母は早く娘の結婚を決めて、安心したかったのかも知れない。

仲人はこんなことも言った。

「ひつじ年生まれの 7 つ違いは、金の草履はいて探さねば見つからぬような良縁ですばい。」

私は学校に行かないなら、どこかにしばらく勤めたかった。今なら勤め口は沢山あるが、当時、地方では女の勤め口はなかった。

それでも暫くは、村役場に臨時雇いとして勤めた。

この頃、兄は結婚して、信用組合をやめて、福岡の証券会社に勤めることになり、一軒借りて住んでいた。

仲人の叔父の説得はまだ続いていた。このおじさんは暇だから、いつとはなしに来ては、ゆっくりと世間話などをして、縁談の話も忘れず話して帰った。

私はどうせ結婚するなら、去年見合いした軍人『当時中尉』の人と結婚しとけばよかったと思った。あの人は嫌いじゃあなかったけれど、進学したい一心で断った。

今、おじさんの持ってきている縁談は、相手が商売人である。私は、商売人があまり好きではないし、特に材木屋というので、なおさら、気が進まなかった。私が通学している途中に、その材木屋があった。その前に馬車が止まっていたり、色の黒い法被を着た男たちが、立ち働いているのを始終見て通るので、大体のことは想像がついた。あれが自分の家の仕事だと思ってみると憂鬱になった。

三ヶ月ほどが過ぎたころ、

「大抵で決めたらどうね。わたしゃあ、商売人も悪くないと思うよ。」

「お母さんも商売人のことは、全然知らんのに。」

「家のように小金しか知らん者より、商売で、大きな金を動かすのも、悪くないような気がする。」

母が、商売を嫌ってないことを私は知っていた。

野中さんの養子息子さんは、今のスーパーのような店を経営しておられた。この店には酒類も、呉服類もあった。

この野中さんは、私の家にも時々見えて、母と話して居られた。店に仕入れる品物の話とか、流行の話とか母のアドバイスを、幾分か参考にしておられたようである。

そういうことから考えても、母は商売が好きだったと思う。

私も結婚に対して、もうどうでもよいような気持になっていた。若い時から苦労した母に、早く安心させねばという気になり、
「あんた達の好きなように」
と言ってしまった。

断るなら、今のうちだと考えたり、結婚してみて悪かったら、またその時考えたらいいだろうという安易な気持ちだったりもした。

結婚の話はどんどん進行していった。私の結婚はこの辺から、間違っていたような気がする。