激動の昭和の時代に、九州の一人の男が、山に生きる


おおむね山の売買には、仲買人が居て、特に高額の山になると、その世話料もばかにならない。

山主と商いの交渉は、長引けば一年も二年も掛ることもあった。昭和十五,六年でも、山代金は高額だった。

山主が売る意思があれば、山の調査をし、価格の交渉に入り、仲介人が大抵まとめたものだった。

仲介人は売主と飼い主を、別々の部屋に置き、

「この辺の値段で見切りなさい。この機会を外したら、また、いつ買い手が現れるかわかりませんばい。」

「今度売られた代金で、格安の良い山をあなたには用意しておりますけん、この際見切って乗り換えなさらんか。その方がはるかに取勝ちますばい。

算盤の珠を両方から上げ下げして山主と折衝した。」

また、買主の方の部屋に行き、

「こんな良い山は、滅多にありまっせんばい。伸びも材質も申し分なく、本数はまとまっているし、出しも悪くない。この山は買い得ですばい。誰それの材木屋も狙っておりますけん、向こうが乗り出す前に、あなたが決められんと取り逃がすばい。大将、ここまではずみなさらんか。」

こちらも、算盤の珠を、二人で上げ下げして折衝する。

この段階まで来ると、年季の入った仲介人なら大方売買を成立させた。

さて植林は、大変な資力と辛抱がなければ山林は育たない。

三、四十糎(センチ)ほどの苗木を山にうえ、子供を育てるように気を配り、毎年、“ねざれ”といって、下草や苗木にまつわる蔓(かずら)などを切り払って育ちやすいように助け、曲がりそうな木は添え木をし、大雪でも降れば、雪折れしないように雪を払って起こし、愛情を注いで育てなければならない。

こうして、一山何千何万本と、育てることは一大事業である。そして、四十年から五十年経過せねば、用材として役に立たない。

木の成長にも、山里と山奥、また、地が肥えたところと、そうでない土地により、二十年くらいの違いがある。

そのように一代かけて、育てた山を、売買するということになると、山主は一大決心が必要だし、子供を手放す以上に愛着を持つらしい。

余程金を必要としない限り、売りたがらないわけである。

当時の材木屋は、山主に頭を下げて、売ってもらうよう頼んだ。普通の商品の売買と大分違うわけである。

私はよく言われた。

「山を買いに行く時には、その山主の一番大事にしている物、自慢している物を誉めねばならぬ。」

たとえば、自慢の山を誉め、立派な家に住んでいればそれを誉め、信心家であれば、仏壇にお参りするし、孫が生まれていれば、それを祝い、兎に角相手を喜ばせることが、大事だと教えられた。

夫が出征して、二年目から戦争は激しく、木材を搬出していた馬や、馬車が次々と徴発された。私の工場で専属にしていた馬車も、他の木材業者が運賃を高く決めて、引き抜いた。

夜にならないと、馬車引きはおらず、私は会うために自転車で二キロくらいある鬼の渕や長延村までよく行った。ようやく、会うことができて、明日は是非我が家の木材運搬をと、固く約束して安心していると、また、翌日は来ない。

別の工場も困っているので、朝早く馬車引きの家に行き、運賃を高く出し、自宅の運搬の場所まで同行するらしい。

私も手少なになった馬車を、雇って回った。原木が出なければ、工場は仕事にならず、休めば賃金は払えず、馬車を確保するのに必死だった。

夜遅くまで、その日の事務的なことを一応片付け、寝るのは一時か二時になった。工場は八時始業だから、、六時半頃には起床した。

義父は毎日、新代の自宅から、工場に通勤してくれた。大分歳を取っていたが、木材のことに通じていたので、助かったし、それに男の人が座っていてくれるだけでも、けじめがつき、心強かった。

この義父は、大変おおらかな性格だった。私を、「志乃さん、志乃さん」と言って、可愛がってくれた。私もこの義父は好きだった。

時々、山の世話人が来て、少量の立木や、伐採した原木などを売りに来た。

義父は話だけを聞き、

「よし、その木を買おう」

と山の世話人に言い、

「志乃さん、金はあるか。いくらか手付金を入れてくれんの。」

と遠くにいる私を呼んだ。

「お父さん、何の金ですか。」

「今少し原木ば、買うことにした。」

「お父さん、それは、一度現品を見てからにしてください。それからでも良いでしょう。」

「いや、間違いなか。かなり儲かるじゃろう。」

と言って、手付金を入れさせた。

後で、現物を見て、話しの通りのこともあるし、全然世話人の話と違って、手付金を放棄することもあった。

この義父は、いつも袂のある着物を着ていた。夏は糊のついた浴衣を着ていた。

義母がきれい好きの人だったからである。工場に来る時、袂の中にお菓子や、蜜柑を少し入れてきて、袂から出して、孫たちに渡していた。