激動の昭和の時代に、九州の一人の男が、山に生きる


一人息子を失った夫は、次第に寡黙となり、機械いじりに熱中した。時には夜中まで、金物や電線など、部屋に広げていた。

ボイラーに勤めている時も、給料の半分は、金物代に消えていた。毎月月末には、金物店から請求書が届いた。

夫の作る物は、手仕事の小さな物でなく、大掛かりな物が多かった。

例えば、屋上まで、大きな金物でも、材木でも、スイッチ一つで引き上げられるリモコン装置などを作ったりした。また一階の物置を改造もした。専門家に頼まず、自分でやるので、いつも人夫を二,三人は雇っていた。そんな支払いも、小さな金ではなかった。

医師からは、足になるべく負担を掛けぬことと、いつも注意されていたが、あまり守らなかった。

或る日、応接間にいた夫は、「水を早く」と大きな声で呼んだ。私はその時、台所にいたので、びっくりして振り向くと、ストーブから、火の手が高く上がっていた。驚いた私は、

「早く逃げて、お父さん、焼け死ぬよ」

と叫んだが、夫は茫然と突っ立っているので、足が動けぬと思い、手を引っ張ったら、倒れたので、そのままズルズルと玄関まで廊下を引っ張ってきた。

そして、隣家の上野さんに、大声で助けを求め、消防署に電話した。

上野さんが、すぐ飛んで来て下さり、私と二人で布団や毛布を次々かぶせ、水をかけて火は消し止めた。消防署から来て下さった時は消火していた。

原因は、夫が石油ストーブを扱っていて、こぼれた石油に引火したのだった。
石油の黒煙が二階まで広がり、壁は真っ黒となった。焼けたのは応接間とその備品、
布団類だった。後で考えると、夫を引っ張り、運んだ自分の力に驚いている。