激動の昭和の時代に、九州の一人の男が、山に生きる


寿江美は、結婚してアンマンに住んでいた。

子供が出来てからは、大抵に年毎に日本に帰って来ていた。

その時、一ヵ月ほど、日本に滞在し、帰る時、是非、私にアンマンに来るように勧めてくれた。結婚以来、まだ、誰も先方に行っていないので、一度行くべきだろうということで、私が着いて行くことになった。

そして、五十二年九月十二日に出発した。

夫の食事のことなど、嫁に頼んでいった。

出発の朝、昌三は私の荷物を空港まで運んで来てくれた。

「じゃあ、行ってきます。お父さんをよろしくね。」、と言って、昌三と握手をしたのが、私は息子との永別となった。

私達は、香港で二泊して、街の主なところを見物した。

やがて、アンマンに着いた私は、婿の親戚や知人から、大変な歓待をしてもらった。

娘達も立派な家に住み、生活に不自由していないことも、この目で見て、今までの不安も吹っ飛び、安心したことだった。

アンマンに着いて、四、五日後、ジェラシュの遺跡を見に行こうと娘達は言った。

朝早くから婿は車にいろんな物を積み込んでいた。車で行くので、途中でコーヒーを沸かして飲む器具や食物、敷物の類である。

私はこの日は、何となく気が進まなかった。しかし、忙しい中を一日開けて、私のために計画してくれたことを思い、感謝しつつ従っていった。孫のマーゼンと四人である。

ジェラシュの遺跡は素晴らしかった。

紀元二,三世紀に最盛期に達した。アラビア海から、チグリス川に抜ける隊商路にそっていたため、交易からもたらされた利潤で、富み栄えた街という。

今残っているアルテミス神殿の柱列や、彫刻は精巧で美しい。

途中景色の良い所で、車を止め、コーヒーを沸かして飲んだ。写真も沢山撮った。

この日は、娘たち夫婦には気の毒なほど、私の気分は弾まなかった。

ジェラシュから帰って来て、暫く休んでいたら、電話がかかってきた。どうやら日本かららしい。私は何となく胸騒ぎがした。

ややあって、私の所に来た娘は、静かな声で言った。

「お母さん、気を静めてね。どんなことを言っても、気を確かにもってね」

「日本からだったでしょう、今の電話?」

「そうよ」

「お父さんが具合が悪いの?」

「お父さんじゃあなくて、兄さんなの。兄さんが亡くなったのよ」

とそれだけ言うと娘は泣き出した。その後、私は、何を言ったか覚えていない。

暫く放心したようになっていたが、その晩はまんじりともせず、蝋燭、線香を立て、夜を明かした。翌朝は親戚の人達が、沢山弔問に来てくれた。

兎に角帰国の便を、あらゆる手を尽くして、婿は探してくれた。しかし、なかなか手に入らなかった。その時丁度、日本の福田首相の一行が、ヨルダンを訪問されていた。そのため便はチャーターされ、一般人には手に入らなかった。

息子が死亡して、四日後に私は、日本に帰ることが出来た。私の帰りを待って、弔いも四日延ばしていたらしい。しかし、もうこれ以上は限度ということで、弔いは終わっていた。

私が会ったのは、祭壇に祀られた息子の遺骨だった。遺骨を抱き、私は泣き狂った。

私は今でも息子の死は、思い出したくない。

十三年も経った今でも、思い出せば涙が出て仕方がない。

彼はあまりにも優しすぎた。親にも、子にも、嫁にも。一人息子を失った私達夫婦は、生きる望みさえ、失ったほどだった。

残された二人の孫は幼く、長女が幼稚園、次女が五歳だった。

幼な子、若い嫁、年寄りを残して、先立つ息子は、どんなにか、心を残したことだろう。その後、嫁と幼い孫たちは、嫁の実家でお母さんと暮らすことになった。当時、お母さんは、お父さん亡き後、一人で広い家に暮らしておられたからである。

「惜しい人を亡くした」と、今でも、息子の早過ぎた死を、惜しんで下さる方が多い。

四十一歳の九月二十二日、秋の彼岸に逝った。正定院の法名をいただいた。

不動産鑑定士の試験に、一次を合格し、二次試験が東京であるので、猛勉強していたという。試験を一週間後に控えての、一瞬の死だった。

今は、この孫娘も、二十歳と十七歳に成長した。