寒苦鳥の教訓
寒苦鳥はインドのヒマラヤに棲むという。
仏典によく出てくる想像上の鳥である。
この寒苦鳥は巣作りをしない。
ヒマラヤの寒い冬の夜を、寒苦鳥の夫婦はお互いに抱き合って 震えて過ごすのだ。
「ああ、寒い。死にそうに寒い。立派な巣があればこの寒さにも耐えられるんだが・・・。巣を造っておかなかった俺たちの怠慢の罰が当たったんだ。」
「本当ですね。あなた、夜が明けたら、巣を造りましょう。」
しかし、 夜が明けて太陽が昇ると少し暖かくなる。そうすると、彼らは巣造りをしようという気をなくしてしまうのである。
「なあ、おまえ、仏教の教えでは、この世は無常だという。俺たちだって、いつ死ぬかわからん。だとすりゃあ、、巣なんて造る必要はあるまい・・・」
「そうですね、お釈迦様は無常を説かれました。あなたの言うとおり、あくせくする必要はないよね。」
そして、夜になると、また、寒苦鳥の夫婦は寒さに耐えながら、明日こそは巣造りをしようと決意を語り合う。
もちろん、明日になると、その決心はころりと忘れてしまうのだ。
これは、お気づきの通り、寒苦鳥の話ではなく、我々人間の話である。
この寒苦鳥の話を どのように評価すべきであろうか?
例えば、「岩波・仏教辞典」では、
「寒苦鳥は現世の苦界にあえぎながら、出離・解脱の道、すなわち仏法を求めない凡夫の懈怠のたとえとする」と解説している。
しかし、ひろさちやの評価は少し違う。
巣を造らずに何とかやっていけるのであれば、あくせく努力して巣を造る必要はない。
一戸建ての家を建てたいばかりに、子供を鍵っ子にしてまで、パートタイムで働くお母さんに、
「なんて馬鹿なことを・・・」と叱った話 だというのだ。
結果はどう生きた方がいいのかいいのかは分からないが、仏教は、何も持つなと教えていることがヒントかも知れない。