カルネアデスの板

2014年01月13日

カルネアデスの板

古代ギリシャの哲学者にカルネアデスがいる。

彼が提起した問題に
”カルネアデスの板”というのがある。

洋上で船が難破した。
ふと見ると板が一枚浮かんでいる。
だが、その井谷は漂流者がつかまっている。
その板にはあいにく一人しかつかまれない。
この時、自分が助かるためには、その板を奪い取るしかない。
それは許されるのか?

現行の日本の刑法では、このような行為は「緊急避難」として、許されている。
また、先につかまっているものがそれを奪おうとする者を殺すことも、「正当防衛」として許されているという。
法律というものが、自分の生命を守ることを前提にしているからである。

しかし、宗教的にはこれは許されていない。
宗教と道徳の差はここに表れている。

ところで、人に親切にすることはいいことだ。
しかし、親切というのはとかく自分勝手で、自分の都合が優先される。
親切には限界があって、カルネアデスの板のような場合、誰でも親切はできないだろう。

仏教の”布施”の行為は根本的に親切とは違う。
布施とは、自分の生命を犠牲にして大事な板を相手に渡すことなのだ。

もちろん、我々凡夫にそう簡単に布施が出来るわけがない。
カルネアデスの板を前にすれば、我々はきっとそれを奪い取るであろう。
けれども、布施の心を持っている人は、自分が相手に布施のできなかったことを反省し懺悔する。


しかし、親切心しか持たない人は、
「こんな場合は仕方ない」と自己を正当化する。
そこのところに大きな違いがあり、その違いが大事なことだと思う。