親鸞の苦悩の末に
2014年01月14日
後に浄土真宗の開祖となる親鸞は、若き日は比叡山の堂僧を務めていた。
しかし、彼は29歳の時、生死の迷いを断ち切ろうとして、比叡山を下りて京都の六角堂に百日の参籠をした。
比叡山における20年間の修業は、結局は彼の悩みを解決してくれなかった。
その六角堂の参籠の95日目の暁に、親鸞は夢で救世観音 のお告げを受けた。
六角堂は聖徳太子の創建になる寺であり、従ってこの救世観音 の夢告は同時に聖徳太子の示現であったのだ。
その夢告は次のようなことであった。
仏道修行者はインドや中国の人達と同じ条件では修行ができない。
日本の仏道修行者がもし 女犯(妻帯)の道を行おうとするのであれば、私(救世観音)が玉女の身となって犯されよう(妻となろう)。
そして、一生の間荘厳し(伴侶となって)、臨終に際しては極楽に導いてあげよう。
時に、1201年の4月5日であった。
この夢告により、親鸞は当時吉水にいた法然に入門した。
そして、自力の聖堂門の道を捨てて、法然の教える他力の浄土門の道に回心したのである。
親鸞は、後に結婚している。
恵信尼という妻がいたことは事実である。
救世観音の夢告によって結婚した親鸞であるから、親鸞が妻の恵信尼 を観音様の化身と信じていたことは間違いない。
恵信尼もまた、夫の親鸞を終生、観音様の化身と信じつづけていたのだ。
そのことを、彼女は夫の死後、娘への手紙で明らかにしている。