本能と欲望

2014年01月02日

我々の体、脳には、いろいろな指令が埋め込まれているように思える。

おなかが空いたら、何かを食べたく思う。

のどが渇いたら水が飲みたくなる。

排泄も同様に、我々の脳に指令が出てくるのだ。

ところで、金持ちになりたいという欲望は、人間の体に埋め込まれた指令であろうか?

どうも、”***がしたい”という欲望には二つの種類がありそうだ。

生命維持のための欲望を本能と呼ぶなら、今よりも良くなりたいという欲望は本能とは違い、人間自身の知恵が作り出したもの。

よりおいしいものが食べたいとか、ステーキが食べたいといった欲望は、本能とは呼べない。

では、本能は何のために人間の脳に埋め込まれたのであろうか?

生命維持のためであることは容易に分かるが、

セックスがしたいという意識はどうだろう。

これも種の保存のために埋め込まれたのであろうか?

以前から、この点に疑問を抱いている。

種の保存の意識とは何ぞや?

自分が自分の種の保存を考えることはできない。

第三者の設計図としてそういうプログラムをしたとしか思えない。

そうすると、種の保存には何らかの目的があるはずだ。

人間が永遠に生きながらえるためだけの仕組みとは思えない。

その設計者は種を保存することに何かの目的を持たせているはずだ。

ヨーガはこれを神への解脱が目的だと教えている。

しかし、それも、私自身疑問を抱く。

神は我々に何かを教えようとしている。

私は、原点に帰るというのが大原則ではなかろうかと思っている。

神は、再出発の仕組みを考えているのだ。

仮に、我々のふるさとが40億万年の昔であったとして、神は我々をそこまで戻しているのではなかろうか?

そこから、再出発の道を歩ませるのだ。

実は魂はその時点からの進化をたどってやってきた。

その魂が、これから進む道を考えさせるため、再生が必要なのだと思う。

神が創造主だとしたら、我々の魂が神になることはできない。

神の分身であることはそうであろう。

神が創った兵隊が人間であり、他の動物である。

そうすると神への解脱は?

私は、やはり、一歩でも神にしかづくことであるが、決して神にはなりえない。

もう一度、本能のほうに話を戻すと、

本能は神が我々に与えてくれたプログラム。

そのプログラムを忠実に学ぶこと。

また、プログラムに隠れた真の神からのメッセージを受け取ること。

これこそが我々には大事なこと。

本能を通じて神のメッセージを感じよう。