魂の要求・・・エントロピー増大の原理

2014年01月10日

生命の誕生からいろいろな進化を経て、今に至る私はどこに行くように仕向けられているのであろうか?

これは誰しもが持つ疑問。

これを今まで、誰も解き明かしてはいない。

ここに私は疑問を持つのである。

もしも神がいるなら、人間はかくの如く生きなさいと言えばいい。
イエスキリストが神の子なら、なぜ、直接わかりやすい言葉で、我々に説明しなかったのか?

イエスは“博愛”を唱えた。

でも、それは究極の目的ではない。

我々は究極の目的を知りたいのだ。

そこで、私は神という存在を疑い、自らである自らの魂こそを信じることにした。

存在している自分の魂と、存在しない自分の魂。
それこそがエネルギー。

エネルギーこそが実在なのだ。

昔、大学生のとき、エントロピー増大の原理である。

つまり、エネルギーの移動の方向と、エネルギーの質について言えば、
例えば、液体を、電気的に加熱する時など、エネルギーは一方向にしか移動しないことは自明である。
電気エネルギーは冷水を暖めることはできるが、熱水自体からは電気エネルギーは生じない。
つまり、電気エネルギーは質の高いエネルギーであるが、温水のエネルギーの質は低い。

ちょっと解りにくいから言い換えて説明する。
電気で水をお湯にすることはできるが、お湯を水にする過程で、電気は発生しないということである。

すなわち、電気エネルギーは温水のエネルギーより質が高いということである。

魂もエネルギーであるならば、魂にもエネルギーレベルがあるということである。

イエスキリストの“博愛”エネルギーは相当レベルが高いということになる。

人の魂にはもともとエネルギーレベルを高めたいという性質を持っている。
しかし、一方怠惰という性質もある。

魂のエネルギーレベルが高まり、質的変化が生じたら一体どうなるのか?

その答えは、誰も持ち合わせていない。

しかし、魂が本来質的変化をさせるように仕向けているのであれば、質的変化の過程ですばらしい感動と喜びを与えてくれるのだろう。

“博愛”エネルギーに到達する過程で、“感謝”エネルギーの蓄積が必要なのであろう。

しばらくは、このことを考えてみたいと思う。