親の任務

2014年01月13日

娘は信州大学教育学部の4年生。

成績と運と本人の意志の総合力で留学の権利を勝ち取った。
アメリカかヨーローッパの大学の中から、紆余曲折の後ポーランドのワルシャワ大学を選ぶことになった。
留学先が決まったのが今年の2月。
ワルシャワ大学から留学許可が下りたのが4月。
それからはビザの取得のためポーランド大使館に行くのは我々親である。
8月末には下宿を引き払い、荷物を持ち帰る。
不動産やとの後始末なども親の仕事。
娘が一人で頑張っても、なかなかうまくいかない。
そんな時、何でも親に投げてくる。
一ヶ月まるまる親のそばにいて甘える。
母親にまとわりついている。
母親は、
「気が狂いそう」
と叫びまくっている。
出発の前は、身の回りの物のうために、忙しそうに動き回ったのは娘でなく、母親の方である。
かくして、出発前夜の昨日、母親は家族そろって娘を送り出してやろうと料理を用意し、テーブルに並べた。いざ、みんなで食べようとした時、娘と母親の口喧嘩が勃発。
ちょっとした娘の不用意な一言で母親は切れてしまった。
娘はテーブルに着こうとしない。
母親の計画はもろくも壊れていった。
娘の飛行機の出発は明日の朝9時45分。
成田まで7時に着くためには遅くとも朝5時に家を出なければならない。
安全を見て4時に出発することにした。
母親は食事を取り、食事の後片付け、洗濯などを済ませ、10時過ぎには床に就いた。
一方、娘の方は一人食事もせず、服や持ち物を選択し、スーツケースに入れている。
しかし、母親とのつまらぬいがみ合いのため、仕事は捗らない。
母親は床に就いたが、娘のことが気にかかり、寝ることができない。
夜の12時過ぎに、娘の所に行ってみると、娘は結局、スーツケースを開けたまま、その場で寝てしまっている。
母親はその娘が風邪をひかないようにと、そっとタオルケットをかけてやる。
結局、母親はそのまま起きて娘に代わって細かなものをスーツケースに詰めてやる。
私が起こされたのは午前3時半。
娘のパッキングを手伝えという。
私は、母親のように細かく手や口を出すこはしない。
娘に時々エールを送るだけ。
「そんなに詰め込んでもスーツケースには入らん」と。
ところが、母親は私に向かって、何とかしろという。
無茶なことである。
出発前の昨日、私のやったことと言えば、パソコンを無線で使えるようにしてやったことだけ。
9月26日の今日は、流石に力を発揮し、パッキングまでこぎつけた。
予定から40分遅れである。
出発したのは、まだ、真っ暗な朝の4時45分であった。
ここからは私の役割である。
横浜のベイブリッジを通り、湾岸線を走る。
親子の会話は意外とない。

出発前の無言の会話である。
成田には1時間半でついた。6時を回っていた。
成田空港は閑散としており、店など空いてはいない。
しばらく時間をつぶし、7時から朝食。
やはり、食べる時がいちばん会話がはずむ。
娘の気持ちは複雑ながらも成田に着いてからは出発モードに切り替わっていた。
出国手続きのためにいよいよ別れである。
3年前に信州大学に初めて娘を連れて行き、いよいよ娘を下宿に残して帰る時、娘は布団にもぐって我々を見送ることも出来なかったことを思い出す。
その時から比べ、成長したもんだと感心する。
一人で、ワルシャワに飛んでいくのだから。
しかし、我が家の先駆者は長女である。一人であの怖い?イランに留学したのだ。
もう一人、長男は大学三年の年、南アフリカに仕事の体験として行ったのだ。
そのことから考えると、次女のワルシャワ留学は最も安全かも知れない。
一人で我々に手を振って出国手続きに出かけて行った。
私と家内は駐車場に戻り、車で東関道の高速に乗った。
私は、親の大きな任務が一つ終わったな、と家内に言った。
家内は、感慨深げにうなづいた。
そのタイミングで、伊豆のおばあちゃんから電話が入った。
家内は、娘が今出発したことを告げて、お礼を言った。
私は思った。
おばあちゃん、おじいちゃんも大きな任務を終えたんだ、と。