仏の物差し
そこには決められたルールがある。
世間の物差しである。
具体的に言うと、
勉強ができる人は・・・素晴らしい
スポーツ万能は・・・羨ましい
病気になった・・・可哀そう
人のものを盗んだ・・・ドロボー
これは普通の人間なら当たり前の感覚。これが世間の物差し?
仏様の物差しとは、一体なんだろう?
一言で言うと、『人間はなんだっていい』、というもの。
勉強ができても出来なくても、どうでもいい。
美男であろうとなかろうと、美女であろうとなかろうと。
そんなこだわりを超越しなさい、と教えているのです。
真面目な努力家とか、怠けものとか、そんなことはどちらでもいい。
仏様の教えは、ある意味、デタラメなのである。
南無阿弥陀仏の南無とは、帰依するという意味。
平たく言うと、すべて、仏様にお任せしますという意味である。
仏様は、この世に生あるものを全て救うという意志を持っている。
ただし、誰をどのように救うかわからない。
難破があって、海で溺れかかっている集団がいるとする。
仏様は誰から救うのか?
救える人から救うというのが、原則らしい。女だから、子供だからという優先順位などはない。
ただ、泳げる人は、原則救わない。自分で泳げ抜けというのである。
助けを必要とする人間から救うのだという。
罪を犯し、人間社会からつまはじきにされたものを救う。
人を殺してしまい、世間から白い目で見られている殺人者を救うのだ。
自立できる人間は救わないのだ。
金持ち、健康な人、周りの人からサポートを受けられる人は助けないのだ。
そんな人たちは、逆に喜捨しなさい、と言っている。
すなわち、仏の代わりになって人を救えというのだ。
こうして、仏の分身を作るのだ。
自分は仏に救われるほうを選ぶか、仏の代わりになりたいか、という選択である。
ひろさちや先生は、このような具体例であ教えてくれた。
東大受験生の話である。同級生にA君とB君がいた。A君は99%、東大合格間違いなしという秀才。B君は合格率50%。
ところが、実際には、合格はB君で、A君は落ちてしまった。
そんなある日、B君がA君の家を訪れる。A君の母親は、腹の中ではムカつくほどの思いだった。
会ったB君はA君に、自分が合格できたのはA君のおかげだった。「ありがとう」と礼を言った。あわせて、「来年東大で待っている」と正直に語った。
A君の、その時の思いはさぞかし悔しかっただろうと、母親はB君を責めた。
しかし、A君は違っていた。
もしも、立場が逆だったら、自分はBくんの家を訪ねただろうか?
自分は、自分の合格だけを喜んで、落ちたB君の思いを考えただろうか?
そのことに気がついたA君は立派であった。
自分はその程度の人間だったことを気づかせてくれたんだ、と思った。
単に、東大に合格するより、価値のあることだと気付いたのだ。
これが仏さまの真の教えだという。