二人の死に方
臨済宗妙心寺の開山である関山慧玄(かんざんえげん・・・1277~1360年)の最期は、こうであった。
彼は長らく病床にあったが、或る日、
「どうやらお迎えが参ったようじゃ」と言って、自ら旅支度をして、杖をつきつつ寺を出て行く 。弟子たちに見送られて30歩ほど歩いたが、開山はそこで杖に持たれてじっとしている。
弟子たちが駆けつけてみると、開山はそのまま死んでいた。
もう一人の禅僧を紹介する。
臨済宗天龍寺派管長の橋本峨山(がざん・・・1853~1900年)の臨終はいささか風変りだった。
息を引き取る間際、峨残は弟子たちを全員集めた。そして、
「おまえたち、みておくがよいぞ。ああ、死ぬことは辛いもんじゃ。死にとうないわい。」
と言いつつ、目を閉じた。
この二人の僧は、ともに弟子たちに、まぎれもない人間の死を「演出」して見せたのだ。
関山の死は、「生」の連続のごく自然な終焉であると教えてくれたのではなかろうか。
一方、峨残の死は、「生」を大きく肯定するための死であった。
ところで、もう一人紹介しよう。
明治の俳人、歌人の正岡子規の言葉を引用しておく。
彼は脊椎カリエスのため、30歳になる前から死ぬまで、ほとんど病床にあった・
或る日、子規はその病床で忽然と気づくのである。
「余は今まで禅宗の悟りということを誤解していた。悟りということはいかなる場合でも平気で死ぬることかと思っていた。しかし、これは間違いで、悟りということはいかなる場合にも平気で生きていることなのだ。」
どんな人間も死ぬまでは生きている。
その生をしっかり生きることこそが大事なのだ
子規はそう悟ったのだろう。