横浜こぼれ話は筆者の佐藤栄次が随筆や意見や考えを書いておりますので、一度見に来てください、

カルネアデスの板

古代ギリシャの哲学者にカルネアデスがいる。

彼が提起した問題に
”カルネアデスの板”というのがある。

洋上で船が難破した。
ふと見ると板が一枚浮かんでいる。
だが、その井谷は漂流者がつかまっている。
その板にはあいにく一人しかつかまれない。
この時、自分が助かるためには、その板を奪い取るしかない。
それは許されるのか?

現行の日本の刑法では、このような行為は「緊急避難」として、許されている。
また、先につかまっているものがそれを奪おうとする者を殺すことも、「正当防衛」として許されているという。
法律というものが、自分の生命を守ることを前提にしているからである。

しかし、宗教的にはこれは許されていない。
宗教と道徳の差はここに表れている。

ところで、人に親切にすることはいいことだ。
しかし、親切というのはとかく自分勝手で、自分の都合が優先される。
親切には限界があって、カルネアデスの板のような場合、誰でも親切はできないだろう。

仏教の”布施”の行為は根本的に親切とは違う。
布施とは、自分の生命を犠牲にして大事な板を相手に渡すことなのだ。

もちろん、我々凡夫にそう簡単に布施が出来るわけがない。
カルネアデスの板を前にすれば、我々はきっとそれを奪い取るであろう。
けれども、布施の心を持っている人は、自分が相手に布施のできなかったことを反省し懺悔する。

しかし、親切心しか持たない人は、
「こんな場合は仕方ない」と自己を正当化する。
そこのところに大きな違いがあり、その違いが大事なことだと思う。