横浜こぼれ話は筆者の佐藤栄次が随筆や意見や考えを書いておりますので、一度見に来てください、

ポコ・ア・ポコ パソコン教室の実践的テキストを開放しています。ご活用ください。

このテキストは、上級です。
作成のポイント:
まず、文章をすべて横書き入力します。
すべての文章を選び、[書式]からフォントの設定と[段落]で左インデントと字下げの設定を行います。
次に、テーマ「テスト1」
をワードアートにします。
最後に、画像をインターネットから持ってきてそれをピクチャーに保存します。
文字の折り返しメニューで画像を前面にします。画像は[画像の配置] で上ぞろいかした揃えにします。


テスト資料

終戦から14年が経とうとしていました。荒廃の中から立ち上がった日本が少しずつ自信を持ちかけてきた頃、国民の心を一にする吉報が日本中を駆け巡りました。
皇太子殿下(現、天皇)のご成婚。
ちょうどその慶事を4月にひかえて沸きたっていた1959(昭和34)年2月のある朝、一人の青年が、横浜の山下埠頭からブラジル行きの船に乗り込みました。「あるぜんちな丸」と名づけられたその船はその日が2回目の航海でしたが、20歳の青年にとっては“処女航海”でした。
色とりどりの紙テープの中、船は緩慢な動きでしずしずと港を離れます。この時デッキで、将来のコーヒー業を夢見て「ついに、日本を出てやったぞ!」と静かに燃えていた青年こそ、ドトールコーヒーの創業者、鳥羽博道の若き日の姿でした。
鳥羽青年を乗せた「あるぜんちな丸」は、横浜からロス、パナマ、ベネズエラと42日間の航海を経て、ついにリオデジャネイロの港に接岸しました。
憧れのブラジルに第一歩をしるした鳥羽は、そののち、見るもの聞くものに感激と驚きの日々を送ることになります。道で知り合いに会うと「コモ・バイ!(やぁ、しばらく)」「トマ・カフェ(コーヒー飲もうか)」とバールと呼ばれるドトールコーヒーショップのような店に入ってサッカーの話に興じ、また時間をつくってはコーヒー農園を訪ねて作業工程を学び、現場監督として現地の労働者と共に汗を流しました。
地平線の彼方まで広がる広大な農園。そこにお城のような農園主の家と自家用の飛行機が。そんな光景を目のあたりにした夢多き青年が、「いつの日か、自分も農園主になりたい!」と野望を抱いたとしても不思議ではありません。
ブラジルでの日々は、コーヒーをはじめとする様々な異国の文化が、真綿に水がしみ込むように鳥羽の中に入り込み、刺激しました。その証拠に、20代のはじめにコーヒーの本場で体で学んでことは、なにものにも代えがたい財産となって今に生きています。リオに半年、サンパウロに2年のブラジル修業。その時にサンパウロで住んでいた住所が「ドトール・ピント・フェライス通り85番地」といいました。
ブラジルから帰国した鳥羽は、約1年の準備期間を経て、コーヒー豆の焙煎会社を設立します。1962(昭和37)年、鳥羽24歳の春でした。社名は、サンパウロで住んでいた地名にちなんで「ドトールコーヒー」と名づけました。(中略)
「ドトールコーヒーショップ」の1号店は、1980(昭和55)年4月18日、原宿で産声をあげました。間口4m、奥行7m、わずか9坪ほどの小さな店でしたが、ついに、安く、早く、しかも味はフルサービスの店に負けない、日本で初めてのヨーロッパスタイルの喫茶店のオープンです。ずっとあたためてきた思いが、いま目の前でカタチになる。この小さな店の成否が、これからのコーヒー業の在り方を、そして「ドトールコーヒー」の行方を決定する____。
「ドトールコーヒーショップ」を世に送り出すにあたって、鳥羽はまずコーヒーの価格を150円(当時)と決めました。原価や必要経費などから導きだすのではなく、毎日お客さまの負担にならないコーヒー1杯分の価格はいくらだろう、という考え方から設定されました。この「お客さまの立場に立った発想」は、鳥羽の、そしてドトールの基本スピリッツとして徹底的にしみわたっています。(中略)
お客さまの支持を得て「ドトールコーヒーショップ」も順調に育っていた頃。かつてブラジルで抱いた“コーヒーの農園を持ちたい”という大きな夢を現実のものとする機会が訪れました。1995(平成7)年。コナコーヒーの産地、ハワイ島コナ地区に「マウカメドウズ・オーシャン」(約24万m2)と「マウカメドウズ・マウンテン」(約43万m2)という2つの自家農園を開設したのです(現在も拡張中)。若き日に描いた夢が、四半世紀を経て正夢に。文字通りの“夢の農園”です。