横浜こぼれ話は筆者の佐藤栄次が随筆や意見や考えを書いておりますので、一度見に来てください、

新年、明けましておめでとうございます。
旧年中は大変お世話になりました。
本年も相変わらず、ご指導の程よろしくお願いいたします。
三年前、一昨年と相次ぎ入院するなど、皆様から色々お世話いただいたこと感謝しております。
昨年を振り返ってみますと、私自身、また、周辺の方々に大過なく終わったことが何よりのことと喜んでおります。
私も、昨年12月で69歳になりました。
あの小学校時代の洟垂れ小僧が、良くもここまだやってきたものだと、不思議にさえ思っております。
昨年秋に、「これから、どの様に生きていこうか?」と自問した結果、
「そうだ、若い頃、家族日記として書いた“横浜こぼれ話”を書き続けよう。」と気が付き、webサイトの整理を始めました。
このサイトに“俺にも一言、言わせろ!”の私の意見ブログも加えて、再出発したわけです。
みんなが幸せになることを念じ、書き続けていこうと考える次第です。
閑話休題。


私には6歳上の兄がいました。この兄は私にとって不思議な兄でした。
ギャンブル好きで、私の知っているだけでも、マージャン、パチンコ、オートレース通い。どうも勝負運が強かったようです。
その兄は50代から糖尿病になり、何度か入退院を繰り返しました。
しかし、人の良い兄は、田舎の風習で、祭りになると朝から酒を勧められ、強くない酒を飲んでいたようです。そのため、糖尿病が悪化し、最後は失明になり、また、四肢に壊死を起こし、四肢の切断を余儀なくされ、達磨状態で5年以上も病院のベッドの上で生きる修行をしたのです。
私の性格や生き方はこの兄と真逆。しかし、どうもこの兄は私の水先案内人ではないかと思っております。いろんな時に、私の生き方を教えてくれているように思えるのです。
兄が死ぬ一年前、私の長女の仕事の関係で、山口に帰り、兄の病室を訪ねました。
小さくなった兄の前で、私は長年の不義理を詫び、兄が安らかに眠れる時が早く来ることを祈りました。
その兄は、私の存在を気づいてくれていたかどうかは分かりません。
兄の長男は、多分、分かっていると思いますよと説明する。
「口の聞けない、しかも、失明の父は、閉じている目を更に閉じることで、応答するんです。それしか、父には応答する手段が残っていないんですから。」
私は、わずかな動きを感じました。
私は、今年、この兄のことを高野山にいる弘法大師に報告に行こうと思っております。