山の声 レストラン「タイオウ」
山の整理も、どうにか一段落着いた頃、
「遊んでいるわけにもゆかぬから、日銭の上がるようレストランでも、やってみようか」
と夫は言い出した。
「そんな、全然経験もないのに、レストランなど始めてもうまくゆく筈もないですよ」
「食べるだけ上がれば、良いではないか」
ああ、また大儀なことだと私は思った。
「私は、ゆっくり家庭に落ち着きたい。ここ二十年ばかり気のもみ通しで、心も体も休まる暇もなく働いてきたような気がする」
「あんたは気の向く時だけ、加勢すればよい人を雇うのだから」
「人を雇うそのことだけでも、気がもめるじゃあないですか。暫く水入らずで暮らしたい。それに、私はもう体も丈夫じゃあない。」
私は今まで、随分酷使してきた自分が、いとおしくさえあった。
私は夫の性格は、知り尽くしていた。絶対遊ぶことのできない人、現にもうレストランを思い立っているではないか。
しかし、何かやるなら、山よりレストランの方が良いかも知れない。この件については、時間をかけて話し合った。その結果、レストランについて、少し研究してみようということになり、まず福岡方面で、名の知れた店を食べ歩いた。
最初は食堂に少し気の利いた店をと思っていたが、だんだんエスカレートして、どうせやるなら二,三年先を見越して、一流の洋食の店を始めようかという気になった。
当時、日田市には、本物の洋食店は一軒もなかった。洋食の食べ方を知らぬ人も多く、四万人足らずの人口の田舎町では、外食人口も限られていた。
結局、洋食は今から開拓してゆく業種で、地元のお客を、狙わねばなるまい。何はともあれ都会でも恥ずかしくない一流のレストランをということになり、専門家の話、一流店の店主の話を聞き歩いた。
福岡市でいくつもの有名レストランの設計及びデザインをされた長外史氏と巡り合った。
長氏は当時五十歳位の堂々とした体格で、芸術家風の人だった。
私達のレストランを長氏に一任したのは、二度目にお会いしてからだった。
日田市に何度も来られ、いろんな角度から街を調査され、その結果、
「引き受けましょう」、ということになった。
長氏は、私達の店が開店して、間もなく東京の東京温泉の専務となって上京された。以前から約束があったらしい。それで、九州での長氏の仕事は、私らが最後だったらしい。
「今度、野村ん大将は、レストランを始めらすらいいが、日田には早すぎて、失敗じゃあなかろうか」
「あん大将は、大きなことが好きじゃから、分からんばい」
「材木屋が食堂したっちゃ、材木勘定んごたる頭で食べ物売ったら、阿保らしくて、頭の切り替えが出来んじゃろ」
「だが、一軒くらいハイカラなレストランが出来ることは結構じゃあなかとね」
「そうだとも、古いことばかり考えていたら、この町は発展せんもんね。わたしゃあ、大いに歓迎するたい」
こんな会話が、市内では、人が集まれば取り交わされていた。私の耳にも入ってきた。当を得た会話である。
レストランの工事に着手するまでは、小林の山も売ってなかったし、早津山も、後の方の処分は、この後の方だったので、差し詰めの現金は窮屈だった。
私の家は、大通りに面した土間が、二十坪くらいあったので、其処をレストランに改造しようということになった。壁を隔てた裏土間が十坪ほどあった。其処を厨房とした。
土間の正面に、四十センチ角の位の立派な欅の大黒柱があった。これを取り除くことはできないし、また、もったいないので、店内に生かしたいと考えた。
長氏の見積が出来てくると、その意外な金額に少々驚いた。私達の予想していた額の倍以上だった。
レストランは厨房に意外と金のかかることを知らされた。冷蔵庫は生ビールの樽をそのままいくつも入れることが出来るスペースが必要だということで、営業用の大きな冷蔵庫を二台据えた。
また、洋食店に必要なオーブンは、例えば七面鳥の何羽か一度に丸焼きできるものを据えた。外に、厨房用品の雑多なもの、食器類のいずれも、予想以上に高価だった。
喫茶の方も合わせて営業するので、その方の器具類、グラス類は驚くほど高価だった。
これではどうしても、現金が足りないと案じていたら、丸亀の奥さんが、
「ビール会社から借りましょう。ビールもかなり売ることだから。」
と提案された。
「奥さん、そんなに簡単に言われるけど、天下の朝日ビールが小さな店に金を貸すなど考えられませんよ。」
と私は躊躇したが、
「兎に角、私が交渉してみましょう」と引き受けられたが、あまり私は当てにしていなかった。
丸亀商店はは、朝日ビールとは、古くからの取引があり、九州でも酒類販売は、上位の売上であることは聞いていた。
朝日ビールの土斐崎課長と、丸亀の奥さんとの間で話し合われ、会社の許可を得ることになった。その結果、朝日ビール会社より三百万円の融資を受けた。
やがて、工事の方は、約二か月後に完成した。
その間、長氏と私は詳細にわたり、その都度話し合い、打ち合わせをした。
壁の色、床の色、テーブル、椅子など皆調和が取れていた。特に照明には、気を使ったと、長氏は言って居られた。
室内の片側の天井を、ルーバーにし、其処を通す夜の照明は素敵だった。また、カウンターの壁の色は、黄の系統で仕上げ、其処も天井のルーバーを通しての照明により、客席から眺めると、カウンターの後ろの棚の洋酒瓶や、喫茶の器具やグラス類が豪華で、夢のような雰囲気を出していた。
店内に立つ欅の大黒柱は、惜しいけど丸く包んで大きな丸柱として生かした。
これで店内は、大体オープンの準備が整った。
さてコックのチーフとして、福岡国際ホテルで働いていた柴田氏に来てもらった。
丁度、この頃福岡の大丸デパートがオープンして間もない頃だった。
この大丸の食堂部の部長さんが、柴田氏を引き抜いてくださった。
大丸のオープン当時から、外商部と私の家とは関わりがあったからである。
コックは、チーフの外に四人、皿洗い二人、ウェイトレス六人、事務員兼レジ一人という従業員の顔ぶれとなった。
店頭には、ケーキのケースを飾り、ケーキは、店内は勿論店外でも売ることにした。ケーキは福岡の岩田屋デパートの菓子工場より直接二・三日おきに届けてもらった。喫茶の材料とコーヒーは福岡の香栄商会から届けてもらった。
ケーキ一個を店内でも店外でも六十円で売っていたが、今から思うとすごく高価に思えるがそれがよく売れた。
コーヒーは六十円、ランチは二百五十円、ステーキは四百円、トンカツ百五十円という価格だったので、決して安い値段ではないと思われるが、利用してくださるお客は多かった。
二十九年、三十年頃の日田市は、本物のレストランが一軒もなく、定食のマナーなど知る人はまれで、それよりナイフ、フォークを使える人は少なかった。
そんな街に、福岡でも恥ずかしくない店を開店したので、一躍有名となり、日田観光名所の一つとなった。
店の店名「タイオウ」の由来をよくお客様から聞かれたが、これは私達が鯛生金山のある直ぐ近くの山で仕事をしたので、その金山の黄金時代にあやかりタイオウと名付けた。
タイオウの料理も評判がよく、お客があれば、先ずタイオウでご馳走しよう、という家庭が増えてきた。
会社のグループで、定食の一コースの試食会をやったり、卒業前の学生さんを、クラスごとに呼んで、定食の試食会をするように頼まれたりした。
学生さんの時は、チーフと私が店内にいて、一品ずつ運ばれてくる料理を説明して、セットしてあるナイフ、フォークおよびグラス類の順序など説明した。
わたしは、「洋食の食べ方」というパンフレットを作り、お客に配り、気軽に利用していただくことに努めた。
市の行事の川開き、放生会、お盆、年末年始には店内は立て込んだ。
殊にクリスマスは賑やかだった。
七面鳥十二,三羽買い込み、オーブンで丸焼きにした。一羽は仔羊くらいの大きさだから、それだけ焼くのは大変なことだった。
クリスマスの二日間の前売り券を八百円から千円で売り出した。
これも今から考えると高かったと思うが、四百枚位売れた。
それで、二十四日と二十五日は、開店と同時に夜まで満員で、店内に入れない人が外で待っておられた。
夜も更けると、テーブルを片寄せ、広く開けて踊り場とした。
クリスマスケーキも、予約を取っていたので、沢山の量が売れた。
また、開店と同時に、ソフトクリームも売った。これも日田では一番だったと思う。珍しがられて、一つ五十円でよく売れた。
私も次第にレストランになじみ、銀行、学校、市役所など、グループで見えたり、知名人が店に見えると、挨拶に出た。遠来のお客さんが会いたいと言われると止む無く客席に出て行った。
当時、私の家には、店とは別に人の出入りが多かった。木材関係の人や、縁者、物売り、物事の依頼などの人が来るが、ゆっくり付き合ってもおられなかった。私は店のことと、これらのことで、体がいくつあっても足りない有様で、疲れ切っていた。日頃、丈夫でなかったので、マッサージをやる丹生さんがよく来ていた。
結婚以来、身も心も休まる時はなかった。
結局、レストランの方は、私の営業のようになり、夫は相変わらず飛び回っていた。