山の声 四人の子
私達が日田に移り住んだ昭和二十六年は長男の昌三が中学一年、長女美枝子が小学六年、自助道子は小学三年、三女寿江美が幼稚園だった。
昌三は小学校の時からマラソンの選手として県大会などに出場していた。
彼は県立日田高校に入り、東大に進みたい希望を持っていた。
日田港の松塚先生は、
「日田高校くらいでは、東大目指すのは無理だから転向した方が良い」
と勧められて、東京都立高校に編入試験を受けた。その時の受験者五十人ほどの中で一位だったので学校としては秀才が来たと喜ばれたと聞いた。かくして、彼は都立高校二年に入学した。
もともとスポーツの好きな彼は、ラグビー部に入ったらしく、その後の勉強はあまり出来なかったものと思う。
東大入試で、一次はパスしたが、二次で落ちた。私は高校から東京に出したことを悔いた。
結局、本人は貿易を志し、神奈川大学の貿易部に入った。
美枝子は日田高校を卒業して、東京の家政学院短大に入学した。その頃、まだ近くに、あまり女の大学がなかったことと、東京の原先生を知っていたので、良い学校だから行かないかという話もあって、その学校を受験した。そして学校の寮に入った。
二人、東京に下宿すれば、その月々の送金も大変だった。二人で二万円余りは送金していたと思う。
次女道子は、小学校の時から、日本舞踊を習った。市内に藤間流の先生が居られたので学校から帰ると毎日必ずお稽古に通った。本人も好きだったと見えて、言われなくても、必ず日課のごとく通った。
熱心にけいこを積んだおかげで、小学六年で名取を許され、藤間比紗美の名をもらった。
名取の披露発表会は、他に名を取られた二人と一緒に、日田劇場で盛大に行われた。
私の家も八女の親戚から、沢山見に来てくれた。その後、彼女は日田中学、日田高校と進み、京都の池坊短大に進んだ。
三女寿江美も、道子と一緒に踊りのけいこは続けていたので、六年生の時、先生は名取を勧めて下さったが名取にも披露にも沢山お金がかかるので、その年は見送る羽目となり、その後彼女には、チャンスがなく、申し訳ないような気がしている。
寿江美は一家が福岡に転居した時、中学生だったので、福岡女学院に転向し、其処から受験して福岡高校に入学した。
二年生の時、 AFS の資金で、一年間アメリカに留学した。
一年間、お世話になったところは、アメリカ太平洋岸コネチカット州にあるお医者さんのお宅だった。そのお宅に、同年のアビーという娘さんが居られ、自分の所の娘同様、可愛がって頂いたそうである。家の裏に出れば、海岸の砂浜だったと娘は言っていた。
寿江美帰国後、先方の娘さんアビーも、私の平和町の家に遊びに来て、十日ほど滞在した。
AFS つまりアメリカンフレンドスクール、これに合格するには、第一次試験が福岡であり、その合格者が第二次試験を佐賀で受け、そこで合格すれば、第三次試験が東京であって、合格者が決定するのである。
それからの書類提出が大変だった。
さて、アメリカで一年間高校生活を送った娘は日本に帰って来て、一年間福岡に行き、上智大学に入学した。
さて、寿江美は三年生の夏休みに、中近東に取材に行くと言ってきた。
この子は新聞部なので、分からぬ事でもないが、旅費も必要だろうし、よりにもよって、今騒々しい所に行かなくてもと思ったが、本人はすでに準備しているとのことだった。
兎に角道子を、見てくるよう上京させた。
寿江美は、自分の持ち物全部を売り払って、資金を作ったとのこと。しかし、三万円ほど足りないというので、道子は、東京の友達から借りて、妹に持たせたと言った。
写真家の平島祥男氏は、自分のカメラを貸した上、フセイン国王に、紹介状を書いて下さったそうである。
寿江美は出発して、一回はハガキが来たが、その後は何の連絡もなく、行先も分からないので、領事館に頼み、国際警察にもお願いした。一ヵ月ほど過ぎて、警察から電話がかかり、娘の居所が分かった旨、知らされた。
そして、その娘から電話がかかってきた。
手紙は出していると言うが、こちらには着かなかった。兎に角、安心はしたが、警察の力に驚きもし、感謝した。自分で、そこここに国際電話かければ、その料金は相当かかると思われるが、一銭も取らずに、これだけのことをして下さった。